仮配属から二ヶ月、慌ただしい日々の中で“女子一般職”として働くしおりは、自分の姿に少し誇らしさを感じ始めていた。 一方で噂が広がる中、本当にこのままなのかという不安も募る。やがて迎えた異動発表の日、しおりは静かに新たな一歩を踏み出す。
いつも通りの出社のはずだったが、社内の空気はどこか慌ただしかった。 午前の来客予定だった企業が急遽時間を繰り上げて到着すると連絡が入り、しかも午後の会議用資料も手違いで印刷されていなかった。
「あっちの会議室、予約が重なってる!」 「浅井課長、外出中だよ……どうしよう?」
焦る声があちこちから飛び交う中、しおりは深呼吸を一つして、コピー室へ走った。 資料の再印刷を急ぎつつ、電話で応接室のスケジュールを確認。庶務課の同僚に指示を仰ぎながら、別の会議室へ誘導計画を練る。 戻ってきた課長には、状況を簡潔に報告し、来客への応対を丁寧に引き継いだ。
バタバタの一時間を終えて席に戻ると、真奈がにやりと笑いながら言った。
「しおりちゃん、もう私よりよっぽど動けてるじゃん。マジで女子一般職のエースになれるよ?」
「そんなことないですよ、たまたま今日は…」と言いかけたが、口調が妙に浮いて感じられて、しおりは少し笑った。
ふと気づく。こうして忙しく働いている自分を、どこかで誇らしく感じていた。
2ヶ月前、研修着姿で油にまみれ、工具を握りながら「俺がこのラインの設計もできるようになれば」と息巻いていた自分。
今、フリルのついたブラウスに名札をつけて、丁寧な所作で来客を迎えている自分。どちらが本当の自分なのか、もうわからない。
でも少なくとも、目の前のことに懸命に取り組むことだけは、昔も今も変わらない。
しおりはそっと笑みを浮かべて、書類トレーを整え始めた。
六月の終わり。蒸し暑い午後、社内の空調もどこか頼りなく、コピー機の熱と人いきれで空気が重く感じられた。 そんな中、オフィス内ではひとつの噂が静かに広がっていた。
「今年の仮配属組、結局そのまま本配属になるらしいよ。」 「7月1日の異動発表、たぶん女子一般職にはないって。」 「えっ、もう本決まりなんじゃないの? 口外できないだけで。」
直接そう言われたわけではない。
けれど、コーヒーを淹れに立ったとき、庶務の先輩たちが何気なく漏らした声、休憩中の隣のデスクの囁き。
そういった断片が、じわじわと心を締め付けてくる。
仮配属のまま、正式な配属がないまま、本当にこのまま終わるのかもしれない――。
その日の昼休み、真奈と一緒に屋上のベンチでお弁当を食べながら、しおりは思い切って尋ねてみた。
「今年の仮配属、結局そのままって噂、本当なんでしょうか。」
真奈は箸を止め、ほんの少し眉をひそめた。
「うーん……はっきりしたことは分かんないけど、うちの課に配属された子で、あとから異動になった子って、私の知る限りいないかなあ。 しおりちゃんが初めてってことになるかも。」
しおりは小さく息を呑んだ。
「そんなに……?」
「うん。最初は“仮”って言うけど、実質的には“ここに馴染めるか見る期間”って感じかも。 だから、普通に働けてる人は、そのまま“正式に”ここって扱いになることが多いんだよね。」
「そうなんですね……。」
真奈は話題を変えようとしてくれたけれど、しおりの中には妙な重さが残っていた。
その日の午後、給湯室から戻る途中でふとトイレに立ち寄り、洗面台の鏡の前に立った。
整えた前髪、薄く塗ったリップ。女性社員用に新しく支給されたピンク色のネームプレート。
鏡に映っているのは「女子一般職のしおり」であって、2ヶ月前の「工場研修の彼」ではない。
けれど、それが本当に「しおり自身」なのかどうか、自信が持てなかった。
(私は……どっちなんだろう)
仮配属から抜け出せなかったのか、それとも仮の姿のまま定着してしまったのか。 胸の奥が少しだけ、じんわりと痛んだ。
七月一日。カレンダーの文字が、今朝だけ妙にくっきり見える気がした。 朝の空はよく晴れていて、少し風もあり、通勤路に揺れる街路樹がやけに目に入った。けれど、気持ちは晴れなかった。
いつもより丁寧に髪を整え、襟元を直し、微かに色づいたリップを塗る。自分でも気づかないうちに、そうした“準備”が、しおりの中で当たり前になっていた。
会社に着くと、総務部のフロアはいつも通り静かだった。パソコンを立ち上げ、いつも通り業務を始める。その「いつも通り」が、今日だけは異様に重くのしかかってくる。
(もし異動があるなら、今朝の朝会で知らされるはず。なかったら――)
朝会は、あっけなく終わった。営業部に異動者はおらず、他部署の名前がいくつか読み上げられただけだった。 誰も驚かない。誰も騒がない。まるで最初から分かっていたかのように。
「しおりちゃん、今日の来客応対ね。あ、午後から庶務課のミーティングもあるから、それまでに備品整理お願いね。」
真奈が、いつものように笑って指示を出す。その顔に、何の変化もなかった。しおりは小さくうなずき、「はい」と答えた。そうして気づいた。
――自分は、今日から“女子一般職の高坂しおり”として、本当にここに居場所を得たのだと。
誰に告げられるでもなく、通知があるわけでもない。ただ、仮配属という仮面が静かに剥がれて、何も言わずに“本物”になっていた。
業務用の資料を手に、給湯室を通り過ぎるとき、ふと鏡に映った自分と目が合った。
2ヶ月前、汚れた作業服に身を包んでいたころとは、まるで別人だった。
それでも、心のどこかで、自分はちゃんとここまで歩いてきたという確かな感触があった。
(……やるしかない、か)
その日、しおりは鏡の前でほんのわずかに微笑み、何事もなかったかのようにオフィスへ戻っていった。
オフィスに戻ると、浅井課長から会議室に呼び出された。
「――改めて、ありがとう。高坂さんには、この二ヶ月間、ダイバーシティ推進プログラムの一環として貴重な協力をいただきました。」
「いえ……私にとっても、貴重な経験でした」
しおり――高坂しおりは、背筋を正しながらも、言葉の続きを密かに待っていた。
(やっぱり技術系の部署に戻るのかな……?)
そんな期待が、ほんの一瞬、胸をよぎる。もともと配属予定だった技術総合職。
男として、同期と同じように工場で学び、現場に立つ道。初めは戸惑いばかりだったが、課題に食らいついていたあの頃の自分が、確かにいた。
仮配属はあくまで「試み」のはず――ならば、ここで元に戻る可能性は、きっとあるはずだと。
だが。
「今回の仮配属期間中、庶務課での働きぶりや周囲との関係性を含めて、総合的な適性評価を実施させてもらいました。その結果……高坂さんは“女子一般職相当”と判断されました」
(――あ)
浅井課長の言葉が続いた瞬間、胸の奥にふっと冷たい風が吹いたような気がした。 期待していた言葉ではなかった。いや、言われたくなかった言葉だったのかもしれない。 どこかで「元に戻れる」と思っていた。そう思いたかった。けれど今、目の前で事実として突きつけられた。
(やっぱり、もう……“そっち側”の人間って、見なされてるんだ)
「7月1日以降、正式に営業部庶務課の女子一般職として、本採用とさせていただきます」
しおりは口元に力を込め、震えそうな声を押しとどめながら答えた。
「……承知しました」
表情は崩さなかった。けれど、胸の奥で何かが小さく軋んだ音を立てていた。
翌日、女子更衣室。届いた制服の袋を手に、しおりは鏡の前に立つ。仮配属の時よりも丈が短く、腰の位置も高い。やや落ち着かないが、違和感はない。
「しおりちゃん、そのスカートすごく似合ってるよ~。やっぱり春の制服って可愛いよね!」
隣で声をかけてきたのは梨央。ゴールデンウィークに一緒に映画を観てから、たびたび休日を共に過ごしている。
「あ、ありがとうございます。……似合ってますか?」
「もちろん! しおりちゃんは“育ちの良さ”が出てる感じするし~」
笑いながら肩をぽんと叩かれ、しおりは少し照れくさそうに目をそらした。
(梨央さん、こういう距離感ほんと自然……私はまだ、慣れないな)
着替えを終えると、ポケットにスマートフォンがあることに気づく。通知を確認すると、同期のグループチャットが賑わっていた。 レポートだ、設備仕様だ――話題は完全に、技術総合職の世界だった。 しおりは何も打たず、電源をオフにする。
(私の仕事は、こっち。明日は来客対応もあるし……段取り、ちゃんと頭に入れておかないと)
制服のスカートを指で整え、鏡に映る自分を見つめた。 健康診断の受診票が届いたときも、同じ気持ちだった。性別欄に「女」と印刷された一枚の紙。 制服と受診票。どちらも、誰の言葉より雄弁に、現実を語っていた。
(高坂しおり。女子一般職。本採用――)
声に出さずに、自分に言い聞かせる。 新しい制服に袖を通したしおりは、午後の業務に向けて、無言で一歩を踏み出した。
しおりはシャワーを終え、鏡の前に立つと、そこに映る自分をじっと見つめる。顔にはいつも通り軽くメイクを施し、唇に薄いピンクのグロスを塗る。 その手つきは、もはや昔のようにぎこちないものではなかった。すっかり慣れた感覚で、眉を整え、目元を引き締める。
鏡に映る自分の姿に、微かな違和感を覚えることもあったが、それもだんだんと薄れていった。 自分が女性であることを受け入れるのは、もう自然なことになっていた。
部屋に目を移すと、何ヶ月か前までの自分の部屋の面影は、もうほとんど残っていなかった。 クローゼットの中には、もう男物の服は一枚もなかった。代わりに、可愛らしい小物やレディース服が所狭しと並べられている。 手芸に使う材料や道具も整然と置かれており、手作りの小さな作品が棚に並べられていた。 これらはすべて、しおりがこの数ヶ月で趣味として熱中してきたものだった。
棚に並ぶ手芸の作品たち――花柄のポーチ、編み物で作った小さなぬいぐるみ、ビーズで飾ったアクセサリーなど。 どれも自分の手で作り上げたものだと思うと、少しだけ胸が温かくなる。 以前のように、まだ技術書籍を開いて“男の自分”に立ち戻りたくなるような衝動は、今ではもう感じない。
しかし、今日はその過去との決別をしようと決心していた。机の上に置かれていた技術書籍を手に取る。 それらはかつて、技術職に戻ることを夢見て、何度も手にしてきた本だった。だが、今となっては、そのページをめくることがない。
「これで……終わりにしよう」
しおりは静かにその書籍を手に取り、ゴミ箱に投げ入れる。 それが最後の決断だった。技術書籍と共に過ごした日々を、心の中で閉じ込め、未来に進むために。 鏡の中の自分に微笑んで言い聞かせる。
「私は、女として新たな一歩を踏み出すんだ」
その言葉と共に、しおりは深呼吸をひとつ。そして、クローゼットの中に新しい服を手に取る。どれも、今の自分にぴったりだと思えるものばかり。
過去を振り返ることなく、しおりは新たな一歩を踏み出す準備を整えた。
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高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。
佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。
浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。
谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。
朝倉 彩香:総務部総務課の一般職。いつもきちんとした身なりで、どこか抜け感のある笑顔が印象的な女性。
村井 梨央:総務部総務課の一般職。会話のテンポがよく、誰とでも距離感を詰めるのが上手なタイプ。