連休明け、真奈が外出している中、しおりは谷口から急な仕事を頼まれ、資料作成や来客対応を一人でこなさなければならなくなる。 一般職のしおりにとって資料は難解で、自身の無力さに焦りを感じる。しかし、悩みながらも仕事を完了し、少しずつ成長していることを実感する。 終業後、真奈からの励ましの言葉で自信を深め、課長との面談では、女性としての生活や仕事の進捗について話し、さらなる成長を誓う。
連休明け、しおりはオフィスに足を踏み入れると、静かな空気の中でひと息ついた。 真奈は銀行手続きで外出しているため、今日は一人での仕事となった。デスクに座ると、何気なく目の前の書類に目を落とした。その時、ふと谷口悠真から声をかけられる。
「しおりちゃん、ちょっと頼んでいいか?」谷口は少し急ぎ気味に言った。
「はい、何でしょうか?」
「真奈さんが外出してるから、来客対応と資料の準備をお願いしたいんだ。急いでるから、効率よく進めてくれ。」
谷口は簡潔に指示を出し、しおりに書類を渡してきた。普段、あまり感情を表に出さない谷口が、少し焦り気味であることが伝わってきた。 しおりはその表情を見逃さず、すぐに業務に取り掛かる決意を固めた。
「わかりました。しっかりやります。」しおりはうなずきながら答えた。
まずは来客対応を進めながら、次に資料の準備を始めた。 資料を印刷する際、内容に目を通そうとしたが、思ったよりも難解な内容で、すぐには理解できなかった。何度も読み返しながら、しおりは頭を抱えてしまう。
「これ、どういう意味だろう……。」しおりは一瞬、自分の無力さに気づいた。
これまでは、真奈がサポートしてくれていた業務だったが、今日は自分一人で全てをこなさなければならない。 そのプレッシャーがじわじわと重くなり、資料に集中しようとすればするほど、わからないことが増えていった。
「もし、あの勉強用の書籍を読んでいたら、少しは理解できたかもしれないな。」 ふと思い出したのは、カバーをかけたままになっている自宅の書籍だった。それは以前、業務に必要な知識を深めるために買ったものの、 「女としての生活」に慣れるのに忙しく手をつけられなかったものだ。もしあれを開いていれば、今の状況でも理解できたのだろうか。 あるいは、工場研修の続きを受けている同期たちは、きっと今頃この資料をスラスラと読んでいるのかもしれないと思うと、なんとも言えない焦燥感が胸に広がった。
(総合職の仕事って、やっぱり難しいな。)
しおりはその時、心の中で呟いた。総合職としての仕事の高度さを改めて実感したが、その実感はどこか遠い場所の話のように感じられた。
自分にはまだ足りないものが多いのだと感じながらも、そんな自分がこの仕事をこなせるとは思えなかった。
しばらく資料を前に悩んでいると、谷口がまた近くにやってきた。
「しおりちゃん、どうだ?進んでるか?」
しおりは少し顔を曇らせながら答える。
「正直、少し難しい部分もあります。内容を理解しようとしていますが……。」
谷口は少し考え込み、そして軽くため息をついた。
「そっか。まあ、無理に全部理解しようとしなくても大丈夫だよ。でも、少しでも分かるところから進めてみて。」
その言葉に、しおりはホッと胸をなで下ろした。完璧にこなす必要はない。ただ、できるところから一歩ずつ進めばいいということが、少しだけ心を軽くした。
結局、しおりは谷口の指示通りに資料を整理し、来客対応を無事に終えた。そして、仕事を終えると、また真奈が戻ってきた。
「お疲れ様。忙しかったんじゃない?」
真奈が微笑みながら声をかけてきた。
「はい、でもなんとか終わりました。」
しおりは力を抜いて答えた。
「ありがとう。助かったよ。」
真奈はしおりに感謝の言葉を送りながら、しおりの成長を感じ取るように見つめた。
「しおりちゃん、頼りになってきたね。」
その言葉に、しおりは思わず胸が熱くなった。自分がまだ十分に理解できないことも多いが、それでも確実に成長していると感じる瞬間だった。
(まだまだ足りない部分が多いけど、少しずつ覚えていこう。)
しおりは心の中で新たな決意を抱きながら、静かにその一日を終えた。
ある日、しおりは浅井理恵課長に呼ばれて、面談室へ向かった。あまりに慣れない雰囲気に少しドキドキしながらも、しおりは深呼吸をして、扉をノックした。
「しおりさん、少しお話ししましょうか。」
浅井課長はいつものように冷静で優しい声で言う。その表情は穏やかだが、どこかしっかりとした威厳を感じさせる。 しおりが席に着くと、浅井課長は自分のペンを手に取り、少し間をおいてから話し始めた。
「まずは、女性としての生活に慣れたことについて、少し教えてもらえる?」
しおりは少し驚いたように顔を上げた。生活面について尋ねられるのは少し意外だったが、素直に答えることにした。
「はい、最初は本当に不安でした。服やメイク、立ち振る舞いにまで気を使わなければならないし、外を歩いているとどうしても人目が気になって…。 でも、だんだんそれも気にならなくなりました。今では、普通に生活できるようになった気がします。」
浅井課長はうなずきながら、しおりを静かに見守った。
「そうか、それは良かったです。環境が変わることで大変なことも多いでしょうけど、しおりさんならすぐに慣れるだろうと思っていました。」
その言葉に、しおりは少し安心した気持ちを覚えた。
「ありがとうございます。最初は本当に不安だったんですけど、今はそれも感じなくなってきました。」
「では、仕事の方はどうでしょう。一般職としての仕事に、少しは慣れてきましたか?」
しおりは少し考え込んだ。最初の頃、確かに一般職の仕事を「単純作業」だと思っていた。 何もかもが一時的な役割のように感じていて、正直、耐えている時間のようにしか思えなかった。しかし、今はその認識が変わりつつあることを実感している。
「はい、今では少しずつその重要性がわかるようになりました。 最初は本当に単純作業だと思っていたのですが、実際には現場の『空気』を読むことや、判断力を試される場面が多いことに気づきました。 自分が何気なくやっていたことが、実はとても重要だったんだなと感じています。」
浅井課長はしばらく黙って聞いていたが、しおりが続けて話すのを促すように、穏やかな眼差しで見守った。
「それは良い気づきですね。業務の進行や判断がすぐに求められる中で、自分の意識が変わるのは大きな成長だと思います。 最初は不安もあっただろうけど、しおりさんの成長を感じていますよ。」
しおりは嬉しそうに少し頬を赤らめた。その言葉が予想以上に嬉しくて、思わず感情が溢れそうになった。
「ありがとうございます。実は、最近真奈さんに『頼りになってきたね』と言われて、それがすごく嬉しかったんです。それがきっかけで、自信が少しずつ持てるようになってきました。」
浅井課長は微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
「真奈さんも、しおりさんの成長を感じているんでしょうね。周りがそれに気づくということは、自分でもその成長を実感している証拠ですよ。しおりさんが着実に進んできたことを、私は評価しています。」
しおりは心の中で、静かに感謝の気持ちを抱いた。評価を受けることに少し不安もあったが、浅井課長の言葉に背中を押されたような気がした。 浅井課長はしおりを見守るように静かに問いかけた。
「さて、他の社員との関係についてですが、どうですか? 特に、あなたが職場に慣れていく中で、大事にしていることや気をつけていることがあれば教えてください。」
しおりは少し考えてから、答えを口にした。
「はい、私は真奈さんと一緒に働く機会が多いので、そこからかなり支えてもらっています。 それと、総務部の彩香さんと梨央さんにも、私のことを話していて、もともと男だったことも理解してもらってます。二人とも、すごく優しく接してくれて、心強いです。」
浅井課長は軽く頷きながら、しおりの話を聞いていた。
「なるほど、それは良いですね。職場での理解や協力は、仕事をする上で非常に大事なことです。引き続き、お互いを尊重し合いながら、良い関係を築いていってください。」
しおりはその言葉を受けて、少し安心したように頷いた。
「ありがとうございます…。もっともっと頑張ります。」
浅井課長は最後にしおりに向かって、静かな言葉をかけた。
「しおりさん、今後も成長を見守っているから、無理せず、焦らず、あなたのペースで進んでいってほしい。周りを信じて、自分を信じて、ね。」
その言葉にしおりは大きくうなずき、心からその気持ちを受け入れた。
「はい。ありがとうございます。」
面談が終わると、しおりは軽い足取りで部屋を後にした。無理に笑顔を作る必要はなく、その時の気持ちを大切にして、静かに歩みを進めていくことを心に決めた。
シャワーの水音が止み、浴室の扉が開く。 しおりはタオルで髪をざっと拭きながら、柔らかなコットン地のルームウェアに袖を通した。 胸元にさりげなくあしらわれたレースと、小さなリボンの飾り。この服も、先日真奈、彩香、梨央と一緒にショッピングに出かけたときに勧められて買ったものだった。
気がつけば、クローゼットはふわりとした色合いの服や可愛らしい小物であふれている。
男物のシャツやデニム、かつて手放せなかった工具付きの作業ベルトや、分解図びっしりの参考書は、押し入れの奥で静かに埃をかぶっていた。
ふと、二ヶ月前のことを思い出す。まだ男性として、工場で研修を始めたばかりの頃。 ヘルメットをかぶり、安全靴を履いて、図面と機械をにらみながら過ごしていた毎日。 汚れた手で弁当を食べ、汗をかいても気にせず、どこかがむしゃらで、自信に満ちていた。
いま、こうして裁縫道具を手に取り、小さな布を縫い合わせている自分が、あの頃の自分と同一人物だとは、少し信じられない。
裁縫箱の隣に積んであった手芸の本を手に取る。彩香に借りたもので、表紙には淡い糸で縫われた花の刺繍が並んでいた。 ページをめくりながら、しおりは慎重に針を進めていく。布の感触、糸の張り、目の前の静かな時間が、心を落ち着かせてくれた。
スマートフォンに手を伸ばし、同期たちとのグループチャットを開く。 そこには、レポートの進捗や機械構造の応用技術についてのやり取りが飛び交っていた。
「……もう、わかんないな」
ぽつりと呟いて画面を閉じる。あの頃の自分なら、真っ先に議論に加わっていたはずなのに。 今はすっかり話についていけず、それでも焦りよりも距離を感じてしまう。
しおりは深く息を吸って、手元の布に意識を戻す。
「……明日の来客対応、どうしようかな」
同期とは違う道を進み、すっかり離れてしまった。けれどそれは、ただ遠くなっただけではない。 新しい景色が見えはじめた証拠でもある。自分の場所で、自分にできることをひとつずつ積み重ねる。その先に何があるのかは、まだわからないけれど――。
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高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。
佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。
浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。
谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。
朝倉 彩香:総務部総務課の一般職。いつもきちんとした身なりで、どこか抜け感のある笑顔が印象的な女性。
村井 梨央:総務部総務課の一般職。会話のテンポがよく、誰とでも距離感を詰めるのが上手なタイプ。