しおりが自分の嘘と向き合い、心の中で葛藤する。 映画館で感情を抱えたまま過ごした後、しおりは友達に自分の秘密を打ち明ける決意を固める。 映画のストーリーと自分の状況が重なり、勇気を出して嘘を告白。その告白に対する友達の反応は予想外で、自分らしさを大切にして生きる決意を固め、少しずつ前進する。
レストランを出ると、街はすっかり夕暮れに包まれていた。駅前の映画館に向かう道すがら、しおりの足取りは少しだけ重かった。
(俺、嘘をついたんだ)
「しおりちゃん、寒くない?映画館、こっちだよ~」
梨央の明るい声が現実に引き戻してくれる。
「……うん、大丈夫です」
笑顔を作りながら、しおりは心の中で押し寄せてくる罪悪感を、何度も飲み込んだ。
映画館の暗がりに身を沈めながら、しおりはスクリーンを見つめていた。 『A.I.の瞳』――感情を持ちはじめた人工知能が、自分の“正体”を隠したまま少女と関係を築こうとする物語。 そのストーリーは、しおりの胸を強く締めつけていた。
(手芸なんてできないのに……)
「フェルト雑貨とか」「ぬいぐるみ作ったり」と笑って語った“過去”。 実際は、ロボット研究会で金属と配線に囲まれていた日々だった。
(学園祭でアクセサリー売ったとか、よくもまあ、そんなこと……)
手元にあるのは、アクセサリーではなく、半田ごてと電源コードだった。 それでも、彩香と梨央に正体を知られたくなくて、つい“可愛い女子”を演じてしまった。
(あのときも……)
真奈に対しても、「ナンパはきっぱり断った」などと強がってしまった。
(怖くて、ただ逃げただけなのに)
スクリーンの中のAIが語る。
「わたしは……あなたに好かれたかった。ただそれだけ。でも、それが嘘で始まったなら、本当の私はもういないのかな……?」
その言葉が胸に突き刺さる。
(俺も、嘘ばっかり。もしばれたら、って怖がってばかりで……)
2人はしおりのことを“男だった人間”だとは思っていない。 女の子らしく振舞い、可愛いものを好み、華やかなメイクをして……演じることで、安心を得ていた。 でも――それはもう限界だった。
(本当のことを言おう)
不意に、そう思った。怖かった。でも、それ以上に、自分の言葉で向き合いたかった。
(あの子たちになら、きっと……)
しおりは、となりに座る彩香と梨央をそっと見つめた。 そして、その視線を受け止めるように真奈が小さく頷いた。
(全部、言おう。私のこと。嘘をついていたこと。……それでも、友達でいてほしいって)
エンドロールが流れはじめた。 しおりの決意は、映画館の暗がりのなかで、静かに、でも確かに育っていた。
映画館を出ると、空はすっかり夜に染まっていた。 駅前の広場には柔らかな照明が灯り、4人の影を長く伸ばしていた。
「映画、よかったね。なんか、切なかったけど……。」彩香が口を開く。
「うん。あのAIの子、すっごく人間っぽかった。」梨央も微笑んでうなずいた。
しおりは、胸の中で高鳴る鼓動を抑えようとしていた。
手が少し震えているのを感じながら、バッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
(今しかない。今、言わなきゃ、もうずっと言えなくなる)
「……あのさ。」
しおりが立ち止まると、3人も足を止めて振り返った。
「……聞いてほしいことがあるの。」
いつもより低い、でもはっきりした声だった。
「今日……いろいろ話したよね、学生時代のこととか、サークルのこととか。」
「うん。手芸サークルの話、めっちゃ可愛かった。」
梨央がにこやかに返すが、しおりはかぶりを振った。
「……学生時代の話、今日、いろいろしたよね。手芸サークルの話とか、ハンドメイドのアクセサリー売ったとか……あれ、全部……ウソなの。」
「えっ?」
梨央が小さく声をあげる。しおりは、手の震えを隠すように胸の前で指を組んだ。
「ほんとは……ロボット研究会にいた。手芸なんてしたことないの。」
言葉を選ぶようにしながら、視線は地面に落ちていた。
「……それと、真奈さんに“ナンパ、きっぱり断った”って言ったのも……本当は、怖くて声も出せなくて、走って逃げただけ。 強がってただけで、全然、ちゃんとできてなかった……。」
静かな沈黙。しおりは顔を上げた。
「わたし、ほんとは……男だったの。今は仮配属って形で、女性の姿になってるけど、6月には戻る予定で……。」
彩香と梨央が言葉を失ったように、そっと見つめ返す。 しおりは深く息を吐いた。
「ずっと怖かった。でも、今日みんなと過ごして、すごく楽しくて……でも、それだけに、嘘を重ねてることが、苦しくなっちゃった。」
すると、真奈が一歩前に出た。
「……ようやく素直になれたのね。」
その声は柔らかく、どこか誇らしげだった。
「なんだ、びっくりしたけど……それだけ?」梨央が小さく笑った。
「……え?」
「いや、元がどうとかより、しおりちゃんがちゃんと“わたし”って言ってるし。 今日も一緒に楽しかったし、それが全部じゃん。私たち、今のしおりちゃんが好きだから」彩香も笑った。
「ぬいぐるみのくだりは正直可愛すぎたけど、まぁ、ウソにしてもクオリティ高かったよ。ていうか、手芸好きになってくれてもいいのよ?」
「……いいの?」しおりは声を震わせながら尋ねた。
「ナンパから逃げたっていいじゃん。怖かったなら、当然だよ。」梨央が肩をぽんと叩いた。
しおりは、胸に詰まっていた重みがほどけていくのを感じた。
もう、嘘を重ねなくてもいい。
この3人となら、きっと――本当の“わたし”を受け止めてもらえる。
駅前の光がやさしく4人を照らし、夜空の下で寄り添う影が、少しだけ近づいて見えた。
帰宅し、ドアを閉めた瞬間、しおりはその場に座り込んだ。 ヒールを脱ぎ捨て、メイクの残る顔を両手で覆う。
「……言っちゃった、全部」
さっきまでの会話が、頭の中で何度もリフレインする。 梨央の「今のしおりちゃんが好きだから」という言葉。 彩香の「怖かったなら、当然だよ。」という言葉。 真奈の、あの安心させてくれる眼差し――。
「信じてくれた……のかな。」
ぽつりと呟くと、目の奥がじんわりと熱くなった。
あんなに恐れていたことだった。 男だったことを知られたら、軽蔑されるんじゃないか。 引かれるんじゃないか。それでも、言えた。
“わたし”でいるために、嘘を重ねた。 でも、本当にほしかったのは、可愛いって言われることでも、女の子扱いされることでもなかった。 「嘘をつかなくても、ここにいていい」って、そう思える居場所だったのだ。
しおりはゆっくりと立ち上がり、鏡の前に座る。 派手めなアイシャドウに、丁寧に描いたアイライン。 頬にはまだ少しチークが残っていた。
「……よくやったよ、俺」
鏡の中の自分に、小さく笑いかける。 今日の自分は、嘘もついたし、逃げもした。 でも、最後にはちゃんと、自分の足で本当のことを言えた。
「明日からは……もう少し、自分に正直に生きてみようかな」
しおりは初めて、“本当の自分”に少しだけ誇りを持てた気がした。
「親にも言わなきゃな」
自分が何を言うのか、言葉は決まっていない。 けれど、電話をかけるという行動を通して、今までの自分を打破し、少しでも前に進んでいくことを確信していた。 この電話が終わったら、きっと何かが変わる気がした。
深呼吸をひとつし、目を閉じる。 そして、意を決して「発信」ボタンを押した。
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高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。
佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。
浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。
谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。
朝倉 彩香:総務部総務課の一般職。いつもきちんとした身なりで、どこか抜け感のある笑顔が印象的な女性。
村井 梨央:総務部総務課の一般職。会話のテンポがよく、誰とでも距離感を詰めるのが上手なタイプ。