連休の朝、しおりは“女の子”としてメイクを整え、真奈たちとの映画に出かける。駅前でナンパされ戸惑い逃げ出すが、「女性として見られた」ことに胸がざわめく。 ショッピングでは可愛い雑貨を選び、“女の子らしさ”を演じ続けるプレッシャーに疲れながらも必死に合わせる。 カフェでは学生時代の話題になり、しおりは本当の過去を隠して「手芸サークル」と嘘をつく。揺れる心の中で、しおりは“しおり”としての自分を少しずつ受け入れ始めていた。
連休の朝、しおりは鏡の前に立っていた。
今日は“女の子”としてのお出かけ。彩香さんと梨央さんに誘われた映画に行くのだ。普段のナチュラルメイクではなく、今日は少しだけ気合いを入れた女優風メイク。目尻を跳ね上げたアイラインに、ほんのりラメのシャドウ。チークは控えめにして、深めのローズリップが全体を引き締める。
「……大丈夫。ちゃんと、女の子に見えてるはず。」
胸元に手を当てて、しおりは深く息を吐いた。
駅前までの道を歩いているときだった。通りの向こう側にいた男が、しおりを見つけて近づいてくる。大学生風のラフな格好。目が合うとニッと笑いかけてきた。
「ねえ、お姉さん。今日って、空いてたりする?」
唐突な声かけに、しおりの動きが止まった。心臓が跳ねる。口が開きかけたが、声にならなかった。
(えっ、えっ、ナンパ……?俺に?)
「ごめんなさいっ」
しぼり出した声とともに、しおりは踵を返して走り出した。
背中に驚いた声が追ってくるが、振り返る余裕なんてない。ただただ、逃げなきゃと足が勝手に動いた。
そのまま人混みに紛れるように駅前のカフェまで走り、ようやく立ち止まる。息が上がっていた。
(逃げた……?俺、ナンパされたくらいで……)
ベンチに腰を下ろし、しおりはゆっくりと息を整える。 なんだか、胸の奥がざわざわしていた。 かつて“男だった自分”なら、こういうときはきっぱり断っていた。勧誘などでは、堂々と目を見て「結構です」と言えていた。それなのに――
(ただ、逃げ出すなんて……俺、完全に女の子じゃないか……)
その“女の子らしい”行動に、自分自身が戸惑っていた。
情けなさと、恥ずかしさと、自己嫌悪と……でも、それだけじゃなかった。
バッグから小さな鏡を取り出して、自分の顔を確かめる。
少し汗ばんではいるが、メイクは崩れていない。アイラインの跳ねも、リップのツヤも、ちゃんと残っている。
(それでも、あの人は……私を“女の子”として見たんだ)
(魅力的だって、思って声をかけてきたんだ)
その事実が、心の奥で静かに火を灯した。 なりきるための仮面――だったはずのメイクが、今は不思議と誇らしかった。
(やっぱり……このメイク、成功だったんだ)
罪悪感とも違う、妙にくすぐったい満足感。
“女の子として見られること”が、こんなに胸を締めつけるなんて。
ふと、足音が近づいた。
「しおり、おまたせー!」
真奈が明るい声で駆け寄ってくる。しおりの顔をひと目見るなり、ピタッと表情を改めた。
「……どうしたの? 顔、真っ赤。泣いた……わけじゃないよね?」
しおりは一瞬目を伏せたが、慌てて首を振り、笑顔をつくる。
「駅に来る途中、ちょっとナンパされたの。でも、ちゃんときっぱり断ったから、大丈夫。」
「えっ……! 大丈夫だった? 何か変なこと言われてない?」
真奈の顔が一気に真剣になる。その目に、しおりの胸がきゅっとなった。
「うん、大丈夫だってば。びっくりはしたけど、すぐ終わったから。」
平静を装って答えるしおりを、真奈はじっと見つめる。 そのまなざしに、なにかを見透かされているような気がして、しおりは少し視線を逸らした。
「……ふぅん。じゃあ、無理に聞かないけど。でも何かあったら、ちゃんと言ってね? あと、今日のしおり、ほんと可愛いから、そりゃ声かけられるよね。」
「……ありがとう、真奈さん。」
しおりは微笑んだが、胸の奥には小さな罪悪感が残っていた。 ――嘘をついた。 本当は、何も言えずに逃げただけだった。
けれど、今はそれを言う勇気はまだなかった。
彩香、梨央とも集合し、4人はショッピングモールに入った。 小さなガラス細工や、ふわふわのポーチ、パステルカラーの文房具に囲まれて、彩香と梨央は「かわいい~!」と目を輝かせていた。
しおりは、その様子に少し圧倒されていた。
(こういうの、元から好きだったわけじゃない。けど……)
今日の自分は“女の子”としてここにいる。メイクも、服装も、声も、仕草も、すべて気を抜けない。 一瞬の気の緩みで「男っぽさ」が出てしまったら――。
「しおりちゃん、このピンクのヘアクリップとか似合いそう~」
梨央が無邪気に声をかけてきた。
「えっ、あ、ありがと……う」
反射的に笑顔をつくり、手に取ったクリップをレジに向かう。 気がつけば、カゴの中にはリボン付きのメモ帳、ミニミラー、レースのポーチ――普段の自分なら手に取らないようなものばかりが増えていた。
(買いすぎかも……でも、変に選ばないほうが目立つし)
彩香と梨央は学生時代の友人の話や、推しアイドルの新曲の話題で盛り上がっている。
「えー! その子、まだ彼と続いてるの?」
「そうそう!インスタでめっちゃラブラブ投稿しててさ~」
しおりは必死にその会話にうなずきながら、心の中では焦りが渦巻いていた。
(共通の話題が何もない……でも合わせなきゃ。浮いちゃだめ)
「しおりちゃん、学生時代もこういう雑貨屋とかよく来てた?」
急に話を振られて、しおりは一瞬言葉を失いかけたが、すぐに作り話をする。
「う、うん、よく友達と放課後に見て回ってたよ……特に、こういう文房具とか好きだったなって」
笑顔をつくりながら話すと、彩香が嬉しそうにうなずく。
「だよね~! 女子ってつい買っちゃうんだよ、こういうの」
「ほんと、それな~」梨央が続ける。
その会話に、ホッと胸をなでおろしつつ、しおりは(自分はちゃんと“女子”の中に溶け込めているか?)と何度も確認していた。
けれど、そのプレッシャーのせいか、気づけば紙袋の数がどんどん増えていく。
雑貨屋だけで既に3袋。
(やばい、完全に財布のひもが緩んでる……)
でも、今日だけは――「女の子」としての自分を守るために、しょうがない。 そう言い訳をしながら、しおりはまた一つ、淡いラベンダー色の小物入れを手に取った。
カフェレストランのテラス席で、4人は夕暮れの柔らかな光に包まれながらパスタを囲んでいた。 サラダをつまみながら、会話は学生時代の思い出に移っていく。
「そういえば、しおりちゃんって大学では何してたの? サークルとか入ってた?」
彩香が何気なく聞いた。しおりの手がピタリと止まる。
(やばい、それ、まだ考えてなかった……)
「え、えっと……」
口ごもりそうになるのを、笑顔でごまかして言葉を紡ぐ。
「私は……あの、手芸サークルに入ってたの。ぬいぐるみ作ったり、フェルト雑貨作ったりしてて」
「へぇー! かわいい!」梨央が目を輝かせた。
「すっごい似合う!しおりちゃん、器用そうだし~」
「うん、そういうの好きだったから……。あと、学園祭ではハンドメイドのアクセサリー売ったりとかしてたよ」
(本当は、工学部のロボット研究会にいたんだけど……)
自分の声がどこか遠くで響いているような感覚がした。 罪悪感が、胸の奥で小さく蠢く。
「すごいなぁ~。私なんて軽音部で騒いでただけだよ。バンド名とかも適当につけてたし」
彩香が笑うと、梨央も「それっぽい!」とツッコミを入れて、テーブルに小さな笑いが広がった。
「しおりさんって、昔からおっとりしてそうだよね~」
梨央のその一言に、しおりは作ったような笑顔を返す。
(……嘘、バレてないよね?)
そのとき、隣の真奈がグラスの水を口に運びながら、さりげなく言葉を挟んだ。
「しおり、あんまり自分のこと話したがらないタイプなんだよね。手芸の話も、私も最近になって知ったくらい」
「へぇ、そうなんだ?」
「意外~。もっとオープンな感じかと思ってた」
「いや、昔の話って、なんか照れくさかったりするでしょ?」
真奈が軽い口調で笑いながら、しおりの肩を軽くトントンと叩いた。
しおりは、一瞬だけ真奈の横顔を見た。
(……助けてくれてる)
胸の奥が少しだけ軽くなる。
「ありがとう、真奈さん……」
声にならないその言葉を、心の中でつぶやいた。
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高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。
佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。
浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。
谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。
朝倉 彩香:総務部総務課の一般職。いつもきちんとした身なりで、どこか抜け感のある笑顔が印象的な女性。
村井 梨央:総務部総務課の一般職。会話のテンポがよく、誰とでも距離感を詰めるのが上手なタイプ。