【第五話】男の俺が、女子一般職として本採用されるまでの3ヶ月

 しおりは“女性一般職”として新たな日常に少しずつ順応していく。初めてのオフィスメイクに挑戦し、同僚からの肯定的な反応に戸惑いつつも喜びを感じる。 真奈との関係を通じて、雑務の中にも繊細な配慮や判断力が求められることを知り、仕事に対する意識が変化していく。 初任給の差に一瞬心が揺れるが、六月の“終わり”を信じて、自らの立ち位置を受け止め始めていた。


目次


 

1.歩き出す朝

 目覚ましの音が鳴るよりも早く、しおりは自然と目を開けた。 まだ外は薄暗い。以前なら出勤時間ギリギリまで布団にもぐっていたはずだった。 なのに今朝はなぜか、違った。頭の中で「オフィスメイク」という単語がリフレインしている。眠気に勝る不安が、ベッドから身体を引き起こしていた。

 スマートフォンで「初心者 オフィスメイク 時短」と検索し、いくつかの動画を再生する。 昨夜見たものよりは控えめな印象のメイクだが、それでも工程は多く感じられる。
 動画の解説に合わせて動き始めると、気づけばバスルームに立っていた。 シャワーを浴び、昨夜選んでおいた下着とブラウス、タイトスカートに身を包む。鏡に映った姿に、一瞬だけ目を細めた。

「……昨日までの俺、ギリギリまで寝てたのにな」

 笑うように、嘆くように、自分に呟く。化粧水の冷たさで、ほんの少しだけ目が覚めていく気がした。

 身支度を整え、家を出る。外の空気がやけにひんやりと感じられる。 駅までの道すがら、すれ違う人々の視線を感じて、足元が落ち着かない。 信号待ちをしているとき、後ろの男性の目線が背中を滑っている気がして、しおりは自然と背筋を伸ばした。

 電車のホームで列に並ぶと、タイミング悪く目の前に制服姿の男子高校生が数人やってきた。春の始まり、新しい学期に浮かれるような明るい会話。 「へぇ、○○高校かぁ」「俺も通学遠いよー」そんな何気ないやり取りの中で、自分だけが場違いな存在に思えた。

 電車が到着し、彼らと同じ車両に乗り込む。思ったよりも混雑しており、結果的に、しおりは彼らに囲まれるような形で吊革につかまることになった。 自分よりも背の高い、しかしまだ幼さの残る高校生たちに囲まれながら、ふと数日前の自分を思い出す。
 当時の自分も、希望と不安を半分ずつ抱えて、新生活に飛び込んでいた。 まさか、自分がこんな格好――スカートとパンプスを履いて、会社に向かう未来が来るとは思ってもみなかった。

(……人生って、ほんとに何が起きるかわからんな)

 電車の窓に映った自分の姿に、苦笑が漏れた。

 会社に着くと、営業部のメンバーたちがエントランス付近で談笑していた。

「おはようございます!」

 いつもより少し高めの声で挨拶すると、すぐに数人がこちらを振り向いた。

「あれ、しおりさん、昨日と雰囲気違くない?」「そのアイメイク、似合ってますね」 「わ、春っぽくていいじゃん」「今日、なんかいい感じっすよ!」
――その言葉ひとつひとつに、しおりの心が揺れた。

(今どきそれ、セクハラって言われるんだぞ……)

 内心ではそう突っ込んでいた。でも、正直に言えば、悪い気はしなかった。 入社してからの2週間、評価された記憶もなければ、褒められたこともほとんどなかった。 初めて「認められた」と思える瞬間が、こんな形で来るとは思っていなかった。

 そのままフロアに上がると、真奈がデスクから顔を出す。

「しおりちゃん、おはよ。あ、今日……すっごくいい感じじゃん!」

 笑顔でそう言って、親指を立ててくる。しおりは、少し恥ずかしそうに笑って答えた。

「ちゃんと練習しました。昨日、ルームウェアも着ました。……約束、守りましたよ。」

「うんうん、えらい。さすが、やるって決めたらやる子!」

 真奈の言葉が、なぜか胸の奥にじんわり染みた。 化粧を褒められただけで、誰かに認めてもらえたような気がした自分に、少し驚いていた。


2.静かな気配り

 入社から数日が経ち、しおりは庶務課の一角にあるデスクで、電話応対や資料整理といった日々の業務を淡々とこなしていた。 大学時代、研究室の雑務を黙々とこなしていた性分もあって、こうした作業自体に苦手意識はない。 ただ、それでも内心では思っていた。「これ、本当に誰かの役に立ってるのかな」と。
 そんな中、昼過ぎのことだった。資料のチェックをしていた先輩の真奈が、ふと声をかけてきた。

「しおりちゃん、ちょっと手伝ってー」

「はい、どうしましたか?」

「柄杓商事さん、午後から来るんだけど、応接の準備お願いね。あとこれ、会議資料。印刷と製本までやっちゃって。」

「了解です!」

 渡されたPDFを開いて確認していると、表紙に違和感を覚えた。 「事業概要」が「事業概陽」になっている。ほんの一文字のミスだけれど、このまま配るわけにはいかない。

(あれ……どうしよう。先輩に聞いた方がいいかな)

 しおりはそっと真奈のもとへ戻った。

「真奈さん。これ、表紙の文字が間違ってるみたいで……。」

「ん、どれどれ……あー、ホントだ。ナイスしおりちゃん。直しちゃっていいよ。」

「え、報告とかは?」

「いーのいーの。こんなの、気づいた人が直したほうがスマートでしょ。誰にも迷惑かかってないし、むしろ助かるし。」

 言いながら、真奈は肩をすくめて笑った。気取らないけれど、どこか説得力のあるその言葉に、しおりは軽く息を呑んだ。

(雑務って、思ってたけど……これ、全然ちがう)

 その後も、何気ない場面で、しおりの中の認識が少しずつ変わっていく。 たとえば来客時。真奈はその日の天気や相手の会社、立場を見て、お茶の種類を使い分けていた。

「今日は暑いし、アイスで出そうかな。ここの営業さん、前も外回り帰りだったし」

 その判断は早くて、無駄がなくて、でもちゃんと“思いやり”がある。
 別の日には、会議室前で空気がピリついているのを感じた。上司が明らかに機嫌が悪く、他の社員たちは誰も近づこうとしない。 そんな中、真奈だけが、何事もなかったかのように声をかける。

「部長、お疲れさまです。お茶、熱めで持ってきますねー」

 その一言が空気を和らげる。部長の表情が、わずかに緩んだ。

(見てる……ちゃんと、見てるんだ)

 「空気を読む」なんて、どこか曖昧でふんわりした言葉に思っていたけれど、それは単なる感覚じゃない。 場を保ち、人の動きを予測し、誰かが困らないようにする判断力だった。目立たない。でも、確かに支えてる。
 しおりの中で、“女子一般職”という仕事の意味が、少しずつ、形になり始めていた。


3.初任給

 四月末、初任給の日。 配られた封筒を手に、しおりは席に戻る途中で少し指が震えた。開けると、白い給与明細が顔を覗かせた。

「高坂しおり」——名前は間違いなく、今の自分。そのすぐ横、「等級:一般職C」。 支給額は、手取りにして二十数万円。額面で見ても24万円ちょうど。

(……これが、今の俺の「位置」なんだ)

 工場研修に行っている同期の顔が、ふと思い浮かぶ。あちらは総合職。初任給は30万円のはず。 たった6万円。でも、「たった」と思うには差がありすぎた。自分が頑張っても、制度の差でそれだけの開きがある。 なんだか、やっぱり置いていかれた気がして、しおりはほんの一瞬、胸の奥がちくりと痛んだ。

(でも……6月まで。6月で終わるんだ。)

 深呼吸して、明細を封筒に戻す。 「高坂しおり」の肩書きが、永遠ではないことを自分に言い聞かせる。

 昼休み、真奈と一緒に給湯室でお茶を入れていたところ、彼女が何気なく話しかけてくる。

「しおりちゃん、初任給どうだった?」

「うん……まあ、普通? ちょっと差を実感しましたけど。」

「うちらはまだ下っ端だしね。でも自分の稼ぎで何か買えるって、ちょっと嬉しくない?」

「……たしかに、それはあるかもしれません。」

「使い道、決めてる?」

「んー、特には……親にもまだ何も言ってないですし。」

 そう答えながら、心の中では(連絡を取る気にもなれないんだ)と続けていた。 元の名前を使った最後の会話の記憶が、なんとなく思い出せないままだった。
 そこへ給湯室のドアが開き、先輩の女子一般職ふたりが入ってくる。

 一人は朝倉 彩香。いつもきちんとした身なりで、どこか抜け感のある笑顔が印象的な女性。
 もう一人は村井 梨央。会話のテンポがよく、誰とでも距離感を詰めるのが上手なタイプ。

「真奈ちゃん、しおりちゃん、ちょっといい?」

「なになに?」

「ゴールデンウィークさ、映画行かない? あの話題のやつ、レイトショーで。」

「行きたいって思ってたやつ!」

「しおりちゃんもどう?予定ある?」

 突然の誘いに、しおりは少し言葉を詰まらせた。 本当は、実家には帰れない。同期とも会う予定はない。ひとりで過ごす連休になるはずだった。 だが、彩香と梨央はそんな事情を知るはずもなく、屈託ない笑顔で「行こ行こ!」と手を振っている。

(女の子と遊びに行くなんて、リスクしかないのに……)

 彼女たちとの関係が深まれば深まるほど、元が男性だったということがバレる危険も増す。 声、仕草、話し方。どこかにほころびが出れば、一瞬で崩れるかもしれない。 それでも——しおりは、自分に問いかける。

(このまま、ずっと逃げ続けるの?)

 職場では女の子として働き、家では女の子として過ごすよう真奈に言われた。 あの言葉は、最初は窮屈に感じたけれど、いまでは少しずつ納得し始めている。
 「仕事中にボロを出さないため」と言われたけど、それだけじゃない。 この環境に“慣れる”ことは、きっと総合職として戻ったあとにも役立つ。
 それに、ひとりで連休を過ごしていたら、きっと余計なことばかり考えてしまう。 現場研修でがんばっている同期たちと自分を比べて、自信を失っていく気がする。
 ならいっそ、自分を試すつもりで飛び込んでみよう—— そう思ったとき、しおりの口元には、少しだけ決意をにじませた笑みが浮かんでいた。

「うん……行ってみたい、かも。」

 彩香と梨央が嬉しそうに手を取り合い、しおりの肩に軽くぶつかってくる。 思わずよろけてしまったが、それすらも微笑ましく感じた。

(緊張するけど……やってみる価値はあるよな)

 不安と好奇心を胸に、しおりは連休の約束を受け入れたのだった。

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登場人物

高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。

佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。

浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。

谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。

朝倉 彩香:総務部総務課の一般職。いつもきちんとした身なりで、どこか抜け感のある笑顔が印象的な女性。

村井 梨央:総務部総務課の一般職。会話のテンポがよく、誰とでも距離感を詰めるのが上手なタイプ。



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