【第四話】男の俺が、女子一般職として本採用されるまでの3ヶ月

 退勤すると、しおりは「女性社員」としての社会見学に連れ出される。 真奈に導かれ下着売り場やコスメカウンターを巡り、着せ替え人形のように扱われることで羞恥心と違和感を募らせていく。 帰宅後、女の体になった現実を鏡越しに直視し、自分が「翔太」でなくなっていく喪失感に打ちひしがれる。 仲間がキャリアを積み始める中、自分は電話応対や服選びに従事しているという現状に、焦燥と虚無が押し寄せる――。


目次


 

1.社会見学

 定時のチャイムが鳴ったと同時に、しおりは机の上を片付け始めた。庶務課では、定時退社が“当たり前”のように扱われている。研修中であるしおりも例外ではない。

 帰り支度を整えながら、ふと隣の島に視線を向けると、谷口たち総合職の社員がまだパソコンに向かい、打ち合わせ資料を手にして議論をしているのが見えた。 つい数ヶ月前まで、自分も同じ大学の仲間たちと似たような雰囲気で未来を語り合っていた。 だが今、自分は「女の子の姿」で会社を出て、これから「ショッピング」という“仕事”に向かう。

「しおりちゃん、おまたせー!」

 会社の前で待っていた真奈が、元気よく手を振る。

「あ、はい……」

 返事をしながらも、しおりの心は沈んでいた。女子社員として連れ出されるというだけで、すでに足取りは重い。

 最初に連れて行かれたのは、女性向けの下着売り場だった。

「まずはここから。これから女の子として生活するんだもん。基本だよね。」

「ちょっ……ここ、ですか……?」

 足を踏み入れた瞬間、カラフルなレースとリボンの世界が広がる。しおりは思わず立ち止まり、辺りを見渡した。どう見ても場違いだった。 体温が一気に上がり、視線を泳がせながら真奈の後ろを小さくついていく。

「じゃあ、これと、これ。サイズは……うん、これでいけるね。」

 そう言いながら真奈は、まるで人形に衣装を選ぶかのように、どんどん下着やキャミソールを手に取っていく。

(俺は……なんでこんな……)

 フィッティングルームでブラウスを脱がされ、選ばれたレースの下着を身に着けるたび、しおりの顔は真っ赤になった。 鏡に映る自分が「完全に女の子」であることが、何よりも恥ずかしかった。

「慣れておいたほうがいいよ。このへんは会社の経費で落ちるし。」

「け、経費……ですか?」

「うん。ダイバーシティ推進プログラムの一環で、研修期間中は女性社員として必要な身だしなみに関する費用は全部サポートされるの。 いいなー、しおりちゃん。実質、服もコスメも買い放題だよ!」

「……別に、嬉しくないです。買い放題とか言われても……俺、いや、私は……こんなの、全然ありがたくなんか……」

 合理的な説明をされても、羞恥心が和らぐわけではない。むしろ「正式な制度」として扱われていることが、しおりの羞恥を倍増させた。
 その後も、ワンピース、ニット、カーディガン……次々と服を試着させられる。 真奈は楽しげに「次はこれ」「あ、それ可愛い」と次々に試着室へ放り込み、しおりは着せ替え人形のように、ただ着て、脱いでを繰り返すだけだった。

「次はこっち。メイク、やったことないでしょ?」

「え、いや、ないですけど……」

 レディースファッションの袋を両手に抱えたまま、次に連れてこられたのはデパート1階のコスメカウンターだった。

(まさか、ここも行くの……?)

 高級感のあるカウンター、並ぶブランド品、鏡越しに見える女性客たち――すべてが居心地悪かった。 化粧品の香りにむせそうになりながら、しおりはそっと真奈の後ろに隠れるようにして歩いた。

「じゃあ、こちらにどうぞ〜。」

 美容部員に導かれ、座らされた鏡の前。下地、ファンデーション、アイブロウ、マスカラ、リップ……言われるがままに、しおりの顔が「女の子の顔」へと仕上がっていく。 鏡に映る自分は、もはや翔太ではなかった。

「お似合いですよ、しおりさん。こちらの一式、お持ち帰りでよろしいですか?」

「え、あ……はい……」

気づけば、化粧品一式を購入していた。

「じゃあ今日の宿題ね。帰ったら、教えてもらったメイク、ちゃんと練習してみて。」

 真奈が微笑む。冗談ではないらしい。
 レストランに入った頃には、しおりはすっかりぐったりしていた。メイクしたままの自分の顔が、窓ガラスに反射して見える。 その「女の子の顔」を見ながら、学生時代の話をぽつりと語る。

「大学では……CADとか得意だったんです。解析も任されるくらいで、同級生からもけっこう頼られてて。」

 そう話す口調は、どこか自慢げだった。だが、すぐに気づく。いまの「しおり」と、その誇らしかった「翔太」の間には、どうしようもないギャップがあることに。
 真奈は、笑顔でスープをすする。

「いいじゃん、それ。じゃあこれからは、そのスキルを“しおりちゃん”として、どう活かしていくか、考えてこ?」

 冗談のように聞こえたその言葉が、しおりの心に重くのしかかった。


2.静寂の湯、揺れる焦燥

 帰宅してすぐ、しおりはバスルームに直行した。 慣れないパンプスに足を痛め、買い物袋で両手もふさがっていたせいで、家に着くころにはぐったりしていた。
 脱衣所の鏡の前に立ち、服を脱ぎながら、しおりは目を逸らすようにして視線を泳がせた。 だが、どうしても全身が映る鏡に意識が引き寄せられてしまう。
 Tシャツを脱いだ瞬間、丸みを帯びた胸元が視界に入り、無意識に片手で覆ってしまう。 柔らかく、ほんの少し重みのあるその感触は、記憶の中にある“自分”の体とはかけ離れていた。

「……本当に、俺、女になっちゃってるんだな。」

 ふとももを伝っていく視線は、くびれた腰から、自然と内股気味になる脚のラインへと下りていく。筋肉のつき方も、骨ばった膝も、すべてが違う。 男だった頃はがっしりしていた太ももが、今は滑らかで線が細い。指で自分の腹をなぞると、ふわりと柔らかく、無防備な感触が返ってくる。

(これ……全部、俺の身体……?)

 長い髪が肩に落ちてくる感触にも、まだ慣れない。首を振ると、髪がふわりと揺れて、頬に触れる。 わずかに湿ったその感触が、自分がいまどんな姿でここにいるのかを容赦なく突きつけてきた。
 ふいに、肩をすくめて両腕で自分を抱きしめる。まるで何かから身を守るように。

(ただでさえ、仕事の内容も振る舞いも変わって……身体までこんな……。本当に、“俺”はどこに行ったんだ)

 思考が現実に追いつかない。どれだけ鏡を見ても、そこに映っているのは、かつての「高坂翔太」ではなかった。 胸の奥に、言いようのない不安と空虚が広がっていく。

 風呂の湯船に浸かりながら、しおりはぼんやりと天井を眺めていた。 静かすぎる空間に、かすかに水音だけが響く。ふと、大学時代の友人たちの顔が次々に思い浮かんだ。

(今ごろ、アイツらはどうしてるんだろ……)

 研究室で一緒だった佐藤は、商社に入って研修中でもかなりハードだとSNSに書いていた。 工学部の高橋は、機械メーカーで現場研修に入ったらしく、現場の職人とやり合いながらも成長している様子が伝わってくる。 同期の田村は同じ社内で、今まさに工場研修の真っ最中のはずだ。現場のルールや機械の基礎を学び、総合職としての実績を積み始めている。

(俺だけ、女の身体で……電話対応と、服選びと、メイクの練習……?)

 視線を下げると、湯の中で揺れる白い手足。まるで見知らぬ誰かの身体を借りて、別人の人生を演じているような感覚。けれど、それは現実だった。

「……二ヶ月半、か」

 プログラムの期間を頭の中で反芻する。

 たった二ヶ月半。されど二ヶ月半。男としてのキャリアは何も積めないまま、総合職から外れて“女子一般職”として振る舞い続ける時間。 履歴書に書けるような経験は何一つ積めない。同期たちが着実にキャリアを積んでいる今、自分は足踏みすらできていない気がした。

(……何の時間なんだ、これ。本当に意味があるのか)

 スマートフォンが震える。風呂の外から響いた通知音が、現実へと引き戻す。 同期からのメッセージ。

「お前、どこで研修してるんだ?元気してるか?」

 指先が止まる。

(……言えないよ。こんなこと)

 返事をしようとキーボードをタップしかけては、やめる。スマホをタオルでくるんで、そっと床に置いた。

「……俺だけ、取り残されてるみたいだな」

 浴室の静寂が、いっそう冷たく感じられた。


3.鏡の中の他人

 湯船から上がり、バスタオルを巻いて洗面所に戻ったしおりは、ふと鏡を見て立ち止まった。
 ほのかに蒸気がかかった鏡に、濡れた長い髪を肩にかけた女性の姿が映っている。自分だと頭では理解していても、心が追いつかない。

「ああ……そういえば……」

 しおりはハッと何かを思い出した。 真奈に言われた言葉——「家でも女の子として過ごして。仕事中にうっかり言動でバレたりしたら、意味ないでしょ?」という半ば命令のような助言。
 言われるがままに買わされたルームウェアを買い物袋から取り出す。ピンク色の、レースのついた柔らかな生地の上下。 無意識に指がその繊細な布地を撫でると、驚くほど肌になじむ。ふわりとした感触に一瞬うっとりするも——すぐに我に返る。

「な、何やってんだ、俺……」

 袖を通して鏡に映る自分を見て、しおりは言葉を失った。可愛らしい服を着た自分が、まるで“女の子らしく”そこに立っている。

「……なんだよ、これ……」

 混乱と羞恥がないまぜになり、胸の奥に重い感情が沈殿していく。

 部屋の一角には、入社前に揃えていた書籍や参考資料の山が積まれていた。 CADの使い方、製造プロセスの基礎、工場見学のレポートに、技術英語の参考書——すべて、技術職に配属されると信じて準備していたもの。 しかし今のしおりには必要のないものだ。「今はダイバーシティ推進プログラムだから仕方ない」——そう自分に言い聞かせながら、資料の山にそっとカバーをかける。

「……メイクの練習、しなきゃだったな。」

 ルームウェアのまま、鏡の前に座り直す。何から始めればいいのかわからず、とりあえずテレビをつけてみると、恋愛ドラマが流れていた。 画面の中で、恋愛に悩む女性主人公が涙を流していた。自己主張もなく、流されるままの展開にしおりは苛立ちを覚える。

「なんでこう、都合よく泣くだけの女ばっかりなんだよ……。」

 しかし、その“彼女”の顔はあまりに可愛らしくて、目を引いた。

「……やけに印象的な顔してるな。」

 何気なくそう思っただけのはずだったのに、妙にその表情が頭に残った。 涼しげな目元と透明感のある肌、優しげな笑顔の中に、どこか芯の強さを感じさせる雰囲気。 自分とは正反対の世界の人間、そう感じながらも、その美しさに引き込まれるものがあった。
 無意識にスマートフォンを手に取って、その女優の名前で検索をかけてしまう。 表示された検索結果の中に、「あの人気女優風メイク!初心者でもできる透明感メイク術」と題された動画があった。
 サムネイルには、その女優によく似た女性が写っている。プロのヘアメイクかと思うほど完成度が高く、一瞬本人と見間違えるほどだった。

「……マネできるもんならしてみたいよな。」

 半ばヤケ気味に、再生ボタンをタップする。 動画の中では、その女性が柔らかい声で手順を解説していた。

「まずは保湿から丁寧に行いましょう。透明感は土台から、です。」

 スキンケアからファンデーションの塗り方、コンシーラーのポイント、アイメイクのぼかし方まで、細かく順を追って紹介している。 プロ並みの技術に圧倒されつつも、どこか親しみやすい語り口に引き込まれてしまう。
 しおりはテレビの音を小さくし、動画の女性の動きを真似し始めた。 化粧水と下地をつけ、リキッドファンデを顔に伸ばしていく。そのたびに、鏡に映る“女の顔”が少しずつ形を変えていくのがわかる。

「……え、これ、ほんとに俺……?」

 思わず声が漏れる。頬の赤みをコンシーラーで隠し、まぶたに淡いベージュを乗せただけで、顔の印象が見違えるほど変わっていた。

「眉は、ペンシルで描いたあとにブラシで整えると自然な仕上がりに。」

 動画の声に従って手を動かす。最初はぎこちなかったが、次第にコツが掴めてきたのか、なんとか形になってきた気がする。 唇に薄く色を乗せると、鏡の中には、しおり自身も驚くような“柔らかい顔”が出来上がっていた。

「……うわ。なんか……本当に、女みたいだ。」

 そう呟いたあと、はっとして口を閉じる。鏡の中の人物は、たしかに“女の子”にしか見えなかった。誰に見せるわけでもないのに、顔が熱くなる。

「いや、ちがう……これはただの練習だし。」

 焦る気持ちを誤魔化すように、ブラシをしまいながらつぶやく。でも、どこかで思っていた。 この“女優に似せた顔”を自分の顔で再現できたことに、ほんのわずかでも満足してしまったことを。

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登場人物

高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。

佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。

浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。

谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。



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