【第三話】男の俺が、女子一般職として本採用されるまでの3ヶ月

 翔太は「高坂しおり」として本社に初出勤する。 スーツ姿の男性たちに交じれない現実に戸惑いつつ、庶務課での仮配属がスタート。 課長の浅井や先輩の真奈に迎えられ、女子一般職としての業務説明を受けるも、自分の専門性が活かせない仕事内容に虚しさを感じる。


目次


 

1.初出勤

 本社ビルの前に立った瞬間、しおりの足は止まった。

 青く光るガラス壁面に、スーツ姿の男性たちが吸い込まれていく。 かつて自分も、あの列の一部だった――そんな記憶が脳裏によみがえる。最終面接の日。緊張しながらこのビルを見上げ、「ここで働くんだ」と拳を握った。 入社式では、新しい仲間たちと並び、「高坂翔太」という名札を胸に誇らしく胸を張った。

――それなのに、今は。ブラウスの襟元にかけられた、細身の社員証ストラップ。揺れる名札には「営業部庶務課 高坂しおり」。その横には、小さく「一般職」と印字されていた。

(なんなんだよ、これ……俺、なにやってんだ……)

 心の中で何度呟いても、現実は変わらない。ため息を飲み込み、しおりは本社ビルの自動ドアをくぐった。

 まず通されたのは、会議室だった。部屋の奥に腰かけたのは、落ち着いた雰囲気の中年女性。営業部庶務課長・浅井理恵。初対面だが、彼女は穏やかな笑みでしおりを迎えた。

「ようこそ。今日からうちの庶務課に仮配属の、高坂さん。」

「はい……よろしくお願いします」

 しおりは、少し緊張しながら頭を下げた。

「さて、最初に少しだけ大事な説明をしておきますね。」

 浅井課長は、手元の資料をひらりとめくった。

「この制度は『ダイバーシティ推進プログラム』の一環として実施されています。あくまで体験期間ですので、6月末までに“女子一般職の業務と環境”を一定程度体験していただきます。」

その言葉を聞いて、しおり――いや、高坂翔太としての思考がふとよみがえった。

(……今は4月の第二週だから、あと――およそ2ヶ月半か)

 数字に置き換えた途端、胸の奥に淡い希望が灯るのを感じた。 7月になれば、この“仮配属”は終わる。そして、もし無事に本採用となれば、本来志望していた技術部門か、研究開発系の部署に移れるはずだ。 自分は理系で、あくまで技術職志望として採用された。営業部に残るとは考えにくい。

(そうだ……たったの2ヶ月半。我慢すればいいだけだ。今は「高坂しおり」だけど、本来の自分――高坂翔太に戻れる日が、ちゃんと来る)

 そう思えば、胸元のリボンの違和感も、スカート越しに感じる椅子の冷たさも、なんとか受け入れられる気がした。 抵抗はある。だが、それは“今だけ”のこと。いずれ終わるなら、必要以上に抗わなくてもいい――そんな、どこか理性的な割り切りが、しおりの中に静かに根を張っていった。

「また、元の性別に関しては、私と人事担当の真奈さん以外には伝えていません。安心してください。庶務課の他メンバーにも、営業部の社員にも、“しおりさんは新卒の女子一般職”という前提で接していただくことになります。」

 その一言に、しおりは思わず小さく息を吐いた。

(よかった……誰も“元が男”だなんて知らないんだ)

 肩に乗っていた重石が、ほんの少しだけ軽くなる。もちろん、しおりの姿はどう見ても女性で、自分でも鏡を見るたびに戸惑うほどだ。 だが、それでも、もし誰かが「中身は男だ」と知っていたら、視線の意味が変わってしまう。裏で囁かれるかもしれない。興味本位で詮索されるかもしれない。それが怖かった。

(この身体を受け入れきれていないのは、他でもない自分なのに……知られてないだけで、こんなにもホッとするなんて)

 化粧をして、ヒールを履いて、女子社員として微笑むのは、まだどこか演技にすぎない。 でも、演技だと気づかれていないのなら――まだ、やっていける気がした。

「何か不安なことがあれば、いつでも言ってくださいね。」

 浅井の優しい声が、しおりの胸に染みた。

 会議室から、営業部のオフィスへと案内される。開けられたドアの向こうは、いくつもの島型デスクが並ぶ、活気ある空間だった。 コピー機の音、電話の声、資料を手に説明する社員たち――どれもが、社会人としての“リアル”を詰め込んだ風景だ。

「新しく入った高坂さんです。今日から庶務でサポートに入ります。」

 紹介され、しおりは一歩前へ出る。緊張で手のひらにじんわりと汗を感じながら、営業部員たちに向かって丁寧にお辞儀した。

「本日からお世話になります、高坂しおりと申します。至らないところも多いと思いますが、精一杯がんばりますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 一通りの拍手のあと――ふと、視界の右端に見覚えのある顔が映った。

(っ……)

 数歩離れた席。営業企画グループに座っていたのは、大学時代の研究室の先輩、谷口だった。 翔太として、一緒に論文を作成したこともある。何度も一緒に飲みに行き、くだらない話で笑い合った、あの谷口先輩が、今、こちらを見ている。
 だが、その目に浮かぶのは「初対面の女性社員」に対する、どこか柔らかい興味と歓迎の光。 しおりの背筋を、冷たい汗がつつっと伝った。

(……気づいてない……いや、気づかれるわけがない。でも……っ)

 笑顔を保つだけで精一杯だった。自分が何者で、今ここで何を演じているのか――すべてが分からなくなりそうだった。

 こうして、翔太の、いや――
 しおりの「女子一般職」としての勤務が始まった。


2.しおりの憂鬱

 営業部庶務課のデスクに通された初日。制服姿で椅子に座るしおりは、隣に座る佐伯真奈の笑顔がまぶしすぎて、直視できないでいた。

「じゃあ今日は、これからしおりちゃんが担当する仕事をざっと説明するね。」

 真奈はデスク上のファイルを取り出しながら、慣れた手つきで話し始める。

「電話応対、来客対応、備品の発注と管理、会議室の予約、社内文書の作成、経費精算の補助、スケジュール調整……あとは、社内イベントの準備や郵便物の仕分けなんかもあるかな。」

 にこやかに話される業務の一覧。けれど、それを聞くしおりの心は、沈む一方だった。

(正直、どれも……簡単そうだ)

 しおり——いや、高坂翔太は理系出身。大学では化学工学を学び、研究室ではデータ解析や装置の操作にも関わっていた。 新卒として入社したときは、技術系の職種に就くつもりだった。専門性を活かして社会に貢献する、そんなビジョンを抱いていた。
 だからこそ今、目の前に並べられた“女子一般職”の仕事内容に、どこか薄っぺらい印象を拭えないでいた。

(こんなの、誰にでもできるじゃないか……)

 真奈の口から次々に紹介される“多種多様”な雑務。それは見方を変えれば“単調なルーティン”の繰り返しに思えた。 確かに種類は多いが、どれも深く学ぶような要素は感じられない。自分の知識も、スキルも、使う余地はなさそうだった。

(同期たちは今ごろ、工場で設備を見て、現場でモノを動かして、先輩社員から叱られながら実務を学んでる。自分だけ、なんで……)

 焦りが、胸の奥でざわついた。
 もちろん、この状況が仮配属であることは理解している。6月末までの体験期間であり、本採用後は技術部門に配属されるはずだ。 けれど、それでも——。

(この2ヶ月半、こんな仕事を続けて、何が得られる?)

 翔太としての価値観と、しおりとして与えられた役割のあいだで、意識がズレていく。

「大丈夫? ちょっと顔が曇ってるかも。」

 真奈の言葉に、しおりはハッとして笑顔をつくった。

「すみません、ちょっと緊張してて……。」

 本当は“つまらなそうで落ち込んでます”と言いたかった。けれど、それは口にできない。

(早く、技術の世界に戻りたい……)

 名札に書かれた「高坂しおり」の名前が、どこか他人のもののように見えた。


3.電話のベルと、心のモヤ

「しおりちゃん、今日は電話応対、お願いできる?」

 真奈が明るく声をかけてきた。しおりは思わず言葉を詰まらせた。

「……はい、やってみます。」

 もちろん、断る理由などない。しかし、胸の奥にモヤが広がる。

(電話応対か……)

 大学では、専門ソフトを使ってシミュレーションを組み、研究では精密な実験と膨大なデータに向き合っていた。 そんな自分が、今は社内の電話をとって「おそれいります、営業部庶務課の高坂でございます」と頭を下げている。

(こんなの、誰にでもできる仕事じゃないか)

 機械的に受話器を取り、相手の用件を聞き、担当者へつなぐ。ただそれだけの繰り返し。 意味なんて、見いだせない。むしろ、自分のような人材がやるべきことじゃないとさえ思った。

(でも、ここで断るわけにはいかないか)

 しおりは電話を受けるたびに、ぎこちなく言葉を紡ぐ。 真奈が見守っていることを意識し、うまくやらなきゃという焦りが生まれる。

「はい、ただいま席を外しております。戻り次第、お電話差し上げるよう申し伝えます。」

 声が震えて、最後の言葉が不自然に伸びてしまう。しおりは内心で思う。

(こんなこと、どうしてやらなきゃいけないんだろう。意味がない)

 その瞬間、真奈がやって来て、優しくアドバイスをくれる。

「しおりちゃん、ちょっと声のトーンを意識して。もう少し、落ち着いた感じで話してみて?」

 真奈の声は穏やかで、けれど少し厳しさも含まれていた。

「それと、姿勢をもっと意識してみて。背筋を伸ばして、口角をあげるだけで、全然違うから。」

 しおりはうなずき、もう一度受話器を取る。

(こんなこと、わかっている……)

 再度、真奈の指示通りに姿勢を正して、少し声のトーンを変えてみる。しかし、どうしてもぎこちなく感じてしまう。

「おそれいります、営業部庶務課でございます。」

(何だかお芝居みたいだ……)

 内心では反発しながらも、真奈の目を避けるようにして電話を続ける。 真奈はそんなしおりを見て、少し微笑みながら「いい感じよ」と言った。

(いい感じ、って言われても……)

 真奈が背後から声をかけるたびに、しおりはますます居心地が悪くなる。けれど、他に選択肢はない。

(これが、耐えなきゃいけない時間なんだ)

 受話器を戻し、ため息を一つ吐いた。

「おそれいります、営業部庶務課の高坂でございます。谷口様宛てのお電話をおつなぎいたします。少々お待ちくださいませ。」

 内心で反発しながらも、しおりは電話をつなげる作業を淡々と進める。 昔の自分、大学時代の仲間たちとは、こんなふうにかしこまって話すことなんてなかった。 「谷口さん、酒とかどうっすか」なんてくだけた言葉を交わし合っていた。あの頃の自分と、今の自分のギャップに苛立ちを覚える。

 やがて、電話の相手が谷口と話し始める。谷口が顧客と技術的な会話をしているのを耳にしながら、しおりはもどかしさを感じた。 彼が話している内容はすぐには理解できない。その冷静で落ち着いた態度は、今の自分には到底できないものだと感じる。

(俺もああいう仕事ができるようになるはずなんだ。)

 電話を切った谷口は、受話器を戻し、軽く笑った。

「ありがとう、しおりさん。助かったよ。」

 その笑顔に、しおりは無理にでも笑顔を返すしかない。胸の中で、どうしてもこみ上げてくるもどかしさと、焦燥感を抑えつける。 今は、女子一般職の一員として、目の前の仕事をこなすしかないのだ。

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登場人物

高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。

佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。

浅井理恵:営業部庶務課長。しおりと真奈の上司。落ち着いた雰囲気と的確な判断力で、部下からの信頼も厚い。ダイバーシティ制度の趣旨に深い理解があり、しおりに対しても偏見なく接する。業務では厳しさもあるが、公平で冷静な姿勢を貫く。

谷口悠真:営業部営業課。翔太(しおり)の大学時代の研究室の2年先輩。理系出身だが、人あたりの良さと高いコミュニケーション能力を買われ、技術営業として営業部に配属されている。気さくで面倒見がよく、誰に対しても分け隔てなく接する性格。しおりのことも新人として自然に気遣うが、正体には気づいていない。かつての翔太をよく知るだけに、どこか既視感を覚えている様子も。



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