仮配属された翔太――今は「高坂しおり」として女性職場での新人教育を受ける。 教育係の先輩・真奈に導かれ、女性用の下着や制服、さらにはメイクにまで踏み込んだ“女性としてのたしなみ”を一つひとつ学ばされる中で、しおりは羞恥と戸惑い、そして徐々に身体が“女性として”順応していくことへの強い動揺を抱く。 彼の中で確実に何かが変わり始めていた。
翔太――今は「高坂しおり」として登録されているらしい彼の元に、教育係と名乗る女性が現れた。
「やっほー、あなたが高坂しおりちゃんね? 今日からいろいろ教える係になった、佐伯真奈。よろしく~。」
その口調は軽やかで明るく、どこか親しみやすい雰囲気をまとっていたが、動きには無駄がなく、しっかりした印象も受ける。
「私の所属は、営業部庶務課。しおりちゃんもそこに仮配属だから、覚えておいて。 入社して3年目だから、2つ上の先輩ってことになるね。まあ、気軽に“真奈さん”って呼んでよ。」
「しおりちゃん、今日からは庶務課の一員。しかも“女性として”もちゃんとしてもらわなきゃだから、両方、しっかり教えてくね~。」
佐伯――真奈はにっこりと笑って、手にしていた紙袋を差し出す。
「はい、これ。制服と下着のセット。サイズはもちろんピッタリにしてあるから安心してね~。」
袋を受け取ったしおりの手が、ぴくりと震える。
「……下着、まであるんですか……。」
「当たり前じゃん。制服着るなら下着からキッチリしないと。 ライン透けたりしたら、見てる人も気まずいし、なにより“恥ずかしい思いするのは自分”だからさ。」
真奈はからかうようにウインクして、更衣室を指差す。
「はいはい、こっち。さくっと着替えておいで? 慣れないうちは着け方もわかんないだろうから、あとでちゃんとチェックするよ~。」
言われるがまま、しおりは更衣室へ。袋の中身はレースのブラ、ショーツ、キャミソールにベージュのストッキング。 どれも“女性らしさ”を意識したアイテムばかりだった。
(うそだろ……これ、俺が着るのか?)
震える手でショーツを広げる。繊細なレースが縁取りされた布は、あまりにも華奢で、まるで触れることすら憚られるようだった。 おそるおそる脚を通し、ゆっくりと腰まで引き上げる。布の感触が肌に密着し、男物とは明らかに違う“包まれる感覚”に、思わず身体が強張る。
次にブラ。どう装着すればいいのか見当もつかず、内側のパッドを不器用に確認しながら、何度も向きを間違えては外し、肩紐が絡まり、ホックに指が届かない。
「くそっ……女って、こんな面倒なこと毎日してんのかよ……。」
ようやく身につけて鏡を見ると、そこには“胸がある”ように見える自分の姿。 ブラのカーブが身体のラインを女らしく見せていて、視線を合わせるのも気恥ずかしい。
キャミソールをかぶり、ストッキングに取りかかる。爪で破かないよう注意しながら、慎重に脚を通す。 しかし、滑らかな感触に妙な感覚がこみ上げ、しおりはぎゅっと目を閉じた。
(……なんだこの無防備さ……俺、本当に“女”にされてる……)
ようやく着替えを終えたが、最後の一歩が踏み出せない。下着の感触、柔らかい素材、肌を露出したこの格好――そのすべてが、自分の価値観と正面衝突していた。
(戻りたくない……でも、戻らなきゃ……)
更衣室のカーテンの向こう側には真奈がいる。そのことが、ただの“着替え”を“見せる”という行為へと変質させていた。
(今の俺……こんな下着姿で、人前に出るのか……)
胸元を包むレースのブラ、肌に密着するストッキング、薄いキャミソール。 どれもが“見られる”ことを前提にした衣服であり、女としての身体を引き立てるための装いだった。 男だったころは、下着など機能さえ果たせばよかった。けれど今、自分が着ているものは「魅せるためのもの」だ。
(真奈は、俺のこの格好をどう思う……?引くか?笑うか?それとも……)
考えたくない想像が次々と浮かぶ。体温が急上昇し、汗ばんだ手がカーテンを握るのをためらわせる。 ブラのホックが背中に存在を主張し、ショーツのレースが内腿にこすれるたびに、羞恥が全身を這いずりまわる。
(“女の子のしおりちゃん”、そんな風に呼ばれるんだろうな……)
頭では理解していても、心がまだ追いつかない。だが、真奈に呼ばれた時のあの声――優しくて、でも逃げ場のない響き――が脳裏にこびりついていた。
(……逃げるな。これは通過儀礼だ。俺が“女”として扱われるための、第一歩……)
震える指先がカーテンを少しだけ開ける。まるで光にさらされるのを恐れる獣のように、しおりは一瞬、目を伏せた。 だが意を決して一気に開け放ち、背筋を伸ばし、姿勢を整えた。
羞恥で顔が火照るのを感じながら、しおりは真奈の前に、初めて“女の身体”で立った。
「ちょっと、しおりちゃん。ストップ。」
下着姿よりはマシだと、制服のスカートを履こうとしたとき、不意に真奈に呼び止められた。
「ブラのつけ方、変になってるよ。これ、浮いてるし、肩紐も緩い。ほら、見てみて。」
鏡の前に立たされ、自分の姿を直視する。女物の下着を身につけた、女の身体。けれどそこに立っているのは、れっきとした“自分”だった。
「……ちょっと手、出して。」
言われるがままに腕を前に差し出すと、真奈がさっと近づく。 柔らかな指が器用に下着の肩紐を調整し、背中のホックの締まり具合も直していく。さらに――
「こうやって、カップの中に手を入れて、バストを整えるの。こう。手で少し胸を寄せてあげて……はい、やってみて。」
(やれるかよ、そんなの……!)
叫びたくなる衝動を飲み込みながら、言われたとおりにする。 前屈みになって、胸を収め、肩紐を直し……下着が“なじむ”感覚が、逆に恐ろしかった。 自然にフィットしていく自分の体。これは一時のことだと信じていたのに、現実が塗り替えられていく感触が、妙に生々しい。
「よし、それじゃあ次は制服ね。」
手渡されたのは、女性用のブラウス、タイトスカート、そしてリボン。 ブラウスのボタンを留めると、軽やかに体のラインが浮き出る。スカートは腰骨の位置で止まり、膝丈でぴたりと足に沿った。
(やばい……普通に、着れてる……)
鏡に映った姿が、どこからどう見ても「女性の新入社員」であることに、息が詰まる。
「最後はメイクね。営業部はお客様対応もあるから、最低限のナチュラルメイクはマスト。教えてあげる。」
真奈はしおりの顔に軽くファンデーションを乗せ、少し考えるように手元を見つめた。
「普段は自分に合ったものを使うのがベストだけど、今は勤務中だし、私の手持ちで何とかしようか。あまり派手にならないようにね。」
しおりは言われた通り、無言で頷くしかなかった。何がどうなっているのか、今の自分には理解できないことばかりだ。
真奈は小さなメイクポーチからファンデーションを取り出し、それをしおりの顔に優しくのばしていった。
「これはちょっと色が明るめだから、顔全体に均等に塗って。腕とか首の色と差が出ないようにすることが大事よ。」
しおりはその通りに顔にファンデーションを塗られると、真奈が指摘した通り、自分の顔の色と腕の色に少し差があることに気づいた。
「これ、ちょっと明るすぎるかな?」
しおりが少し気になる部分を指摘すると、真奈は軽く笑いながら言った。
「うーん、少しだけ色が明るいけど、今日は仕事だから、これで十分よ。色味を調整するには、少し暗いファンデーションを使うんだけど、今はこれでいいから。」
それから、真奈はアイシャドウとアイラインを簡単に仕上げ、しおりの顔立ちを際立たせる。 全体的に控えめで、目立たない程度に仕上げられていったが、しおりにはその変化が微妙で不安だった。
「まあ、こんな感じで十分かな」と真奈が満足そうに言うと、しおりは少しだけ安心した。
しおりは、初めてメイクが仕上がった顔を鏡で見ると、少しの違和感を感じつつも、自分の外見が少しだけ変わったことを実感した。
「じゃあ、次はこれ、履いてみて。」
そう言って真奈が差し出したのは、黒のプレーンなパンプスだった。ヒールは見た目こそ控えめだが、それでもしおりにとっては、未知の高さだった。
「これ…履くんですか?」
「当たり前でしょ?一般職の制服にはヒールが基本。最初は大変かもしれないけど、慣れだから。はい、立って。」
促されるまま、しおりは恐る恐る足を入れた。かかとが沈み、つま先が自然に下がる。バランスをとろうとした瞬間、足元がぐらりと揺れた。
「う、うわ…。」
姿勢が崩れそうになったのを、真奈がとっさに腕を支えて止める。
「わっ、危ない危ない!ほら、ゆっくり、かかとからつま先へ。背筋を伸ばして、体幹を意識して。大丈夫、最初はみんなフラフラするものだから。」
そう言ってしっかりと腕を支えてくれる真奈の手のひらから、思いのほかしっかりとした力が伝わってくる。 その一方で、自分の身体があまりにも簡単に引き寄せられたことに、しおりはふと気づいた。
(あれ…こんなに、軽かったっけ…?)
真奈の腕に支えられながら、重心を保てなかった自分の体がまるで羽のように扱われた感覚に、どこか薄ら寒さを覚えた。 男性だった頃の筋肉の感覚、踏ん張れば揺るがない土台のような安定感。それらがもう、自分の身体にはないのだと思い知らされる。
(力強さなんて、どこにも残ってない……これが、今の“わたし”の身体か)
一歩踏み出すたびに、ふらつく膝、頼りない足首、ひょいと支えられる肩。 それは明らかに“女性として扱われる”ことへの実感であると同時に、自分が男だったという確かな過去への距離でもあった。
(女の人に、支えられて…情けないな……)
そんな内心の呟きが、胸の奥でにじんだ。誰が悪いわけでもない。けれど、自分の中の“男”だった記憶が、その姿を恥ずかしく思わせる。
「ヒールって…こんなに歩きにくいんですね…。」
「そう。でも、慣れればヒールでの姿勢のほうがきれいに見えるし、女性らしく見られるから。ちゃんと“見せる意識”を持つの、大事よ?」
真奈はそう言いながら、自分のヒール姿を見せて歩いてみせる。 背筋がすっと伸び、歩幅が一定で、膝を軽く曲げてリズムよく歩く姿は、しおりの目にはまるで別世界のように見えた。
「つま先に体重を乗せすぎないこと。重心はおへその下あたりに意識して。あと、膝を伸ばしきらないで、少し余裕をもたせて曲げるの。見て、こう。」
しおりは真奈の動きを真似して、ぎこちなく歩いてみる。 カツ、コツ、と硬い床に響くヒールの音が、余計に自分の姿を意識させた。
「…恥ずかしいです、すごく不自然で。」
「恥ずかしがらないの。“わたしはこう歩くもの”って、堂々としてることが大事なの。自信なさそうにしてると、余計に周囲に見られちゃうからね。 もう一度、後ろ姿も意識して。背中が丸くならないように。ヒップラインも見られるから、内ももに力を入れて、きゅっと引き締めるの。」
「ひ、ヒップライン…!」
しおりは顔を赤くしながらも、真奈の指示に従って姿勢を整える。 背中を反らせすぎず、でも丸まらないように。何度も歩き直しながら、少しずつ、ヒールでのバランスを掴んでいった。
「そうそう、いい感じ。慣れてきたわね。じゃあ、今度は接客用のセリフも練習してみましょうか。動きながらね?」
真奈にそう言われて、しおりはヒールを履いたまま、慣れない足取りで数歩前へと進む。背筋を伸ばし、ぎこちなく歩きながら、真奈が穏やかに促す。
「じゃあ、まずは来客対応からいきましょうか。お客様がお見えになったときは?」
「え、えっと……『いらっしゃいませ』……ですか?」
「それもOKだけど、うちは少し丁寧にね。たとえば……『ようこそお越しくださいました。本日はご足労いただき、誠にありがとうございます』とか。」
(ご足労いただき……?)
耳慣れないほど丁寧な言葉に、しおりは思わず目を見開いた。 大学時代、自分が所属していた研究室では、教授にも「先生、それマジすか?」なんて冗談交じりに話していたほどラフだった。 口調だけでなく、先輩後輩の境も緩くて、敬語を使っても堅苦しくない程度の“ゆるさ”があった。 そんな環境で過ごしていた自分にとって、この“気遣いと礼儀を極めた世界”は、まるで別世界に思えた。
「じゃあ次は、お茶をお持ちするとき。どう言うか、考えてみて?」
「……『こちら、お茶になります』?」
「ブブー。それはNGワードね。 正しくは『こちら、お口に合いますでしょうか』とか、『粗茶ではございますが、どうぞお召し上がりくださいませ』とか。もっと、“気遣い”が大事なの」
「……粗茶……ございますが……」
しおりは口の中で転がすように呟きながら、じわりと赤面する。自分の口から、そんな言葉が出ていることが信じられなかった。 どうして自分が、こんなにへりくだった口調を覚えさせられているのか。
「最後は、社内の方へのご挨拶。たとえば、総合職の男性に書類をお持ちするときは?」
「……『失礼いたします。お時間よろしいでしょうか』……ですか?」
「惜しい!でも、もうちょっと丁寧に。“お忙しいところ恐れ入りますが”とか、“お手すきの際にご確認いただけますと幸いです”とか言えたら完璧よ」
そのたびに、しおりの顔にはじわじわと熱がこもっていく。 聞き慣れない言い回し、そして“女性社員”らしく、どこまでも相手を立てるその言葉たちが、喉の奥でつっかえて仕方ない。
(なんで……なんで俺が、こんな言葉……)
そう心の中で反発してみせても、声に出した瞬間に、自分の言葉が「女の子の敬語」として相手に届いてしまう。それが、何よりも恥ずかしかった。
研修は工場で受けてきたが、営業部は本社ビルにある。しおりは、真奈に連れられて本社まで移動することになった。
工場を出る直前、しおりは足を止めた。正門の向こうに広がる駐車場や歩道を見ていると、妙な緊張がこみ上げてくる。
「……どうしよう、誰かに見られたら……」
ふと、構内ですれ違った同期の顔が脳裏をよぎる。かつて昼休みにラーメンを一緒にすすっていた仲間たち。 彼らに、今のこの“姿”で会うなんて、考えただけでも胃が締め付けられた。
「大丈夫よ、しおりちゃん。そんなに伏し目がちにしてたら逆に怪しまれるわ。」
隣を歩く真奈が、小声で諭すように言った。
「だって……」
「平気よ。まさか、しおりちゃんが翔太くんだなんて、誰も思わないわ。むしろ、そんなふうに顔を隠してたら“新人の子、逃げたくなってるのかな”って思われちゃう。」
そう言われてもしおりの足取りは重かったが、意を決して顔を上げる。 目線の先にいた作業服姿の男性社員が何気なくこちらを一瞥するが、特に反応はない。ただの通行人を見るような視線。
(……やっぱり、気づかれてない……のか)
それでも、心の奥底には違和感がこびりついていた。 今の自分が「他人に見られても問題ない外見」だと理解するほどに、それが“翔太”ではないことの証明になるようで、なんとも言えない居心地の悪さがあった。
やがて駅に到着し、自動改札を通る。通勤時間帯を過ぎた構内にはちらほらと人の姿。スーツ姿の男性たちに混じって、制服姿の学生や、若い女性たちも行き交っていた。
エスカレーターに乗ると、後ろに人が並ぶ気配。とたんに、しおりの意識はスカートの裾に集中した。
(見えてない……よね? まさか、パンツ……)
何気なく片手で後ろを押さえるようにして、さりげなく体を横向きにする。
「そんなに気にしなくても、ちゃんと長さあるわよ」
真奈が笑いながら言ったが、しおりの顔はすでに赤くなっていた。
それにしても、視界が妙に違う。見上げる角度が増えた。
エスカレーターの前方で腕を組むスーツの男性が、妙に大きく見える。
肩幅も広く、がっしりとした背中。いつも見下ろしていたはずの視線が、今や見上げるものへと変わっていた。
(俺……ちっちゃくなってる……)
思わず自分の足元を見た。ヒールの分を差し引いても、明らかに視線が低い。
ホームの柱に貼られた「痴漢にご注意ください」のポスターが目に留まる。 そこには、少し怯えたような女性のシルエットとともに、「痴漢は犯罪です。困ったときは駅係員まで」と記されていた。
(……まさか、俺が……そっちの“注意対象”になるなんて……)
ゾクリと背筋が寒くなる。自分が女性として、他人の“視線”や“触れられ方”に警戒しなければならない側になったという現実が、じわじわと重く、屈辱的にのしかかってくる。 電車がホームに滑り込み、車内に乗り込む。座席に座る人々の視線が、自分をスッと撫でる。それがたとえ無意識なものでも、今のしおりには、突き刺さるように感じられた。
そして――本社ビルが見えてくる。 近代的なガラス張りの高層ビル。これまで何度か来たことはあるが、そのときは翔太として、ネクタイを締めていた。今は、ひざ丈のスカートにブラウス姿。
「さあ、しおりちゃん。ここからが“本番”よ」
真奈の声に、しおりは唇をかみしめて、小さくうなずいた。
←1話へ | →3話へ |
→この小説のタイトルへ |
高坂翔太/高坂しおり:理系出身の新卒男性。仮配属のため、女性の姿となり「しおり」として働くことに。
佐伯真奈:営業部庶務課の先輩社員。しおりの2年先輩で、やさしくフレンドリーな指導係。明るく面倒見がよい。