午前6時。けたたましい目覚まし音とともに、りおはベッドの上で寝返りを打った。
「ん……まだ6時じゃないか……点呼、6時50分だろ?早すぎ……。」
布団をかぶったままぼやいた声は、やけに高く、そして弱々しかった。自分の声に再び違和感を覚える。
「女の子は支度に時間がかかるの。りおちゃん、起きて起きて〜♪」
乃々香はすでに起きていて、鏡の前に座り、ブラシで髪を整え始めていた。早起きの習慣でもあるのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。 鏡に映る自分の顔を、彼女はごく自然な動作で確認しながら、ポーチからファンデーションを取り出した。
「ちょ、え、化粧すんの?」
「うん、だって今日から本格的な生活が始まるんだし。見られること、意識しなきゃね?」
明るく言いながら、化粧下地を顔に伸ばしていくその姿は、まるで訓練された職人のようだった。手際の良さと慣れた表情に、りおは呆然と見入ってしまった。
「りおちゃんも、ちょっとくらいしてみる? ナチュラルメイクなら似合うと思うよ。」
「は? しないし。無理だし。ていうか、なんで許されてんの、メイクとか……。」
素で返す口調がどこか尖っていたのは、動揺と拒絶の入り混じった感情を隠せなかったからだ。
「うちの学校、そういうの割と自由なんだって。先生たちも、きちんとしてれば何も言わないらしいよ?」
りおはその説明を聞いても、納得できなかった。
(なんなんだよこの学校……不真面目すぎる。女子って、そんなに見た目が大事なのかよ……)
そう思いつつも、乃々香の手元のファンデーションが肌を滑る音、まつげをカールさせるリズム、リップを塗る瞬間の表情――そのひとつひとつが妙に心に引っかかる。
(……まさか、俺も、ずっと女のままだったら……いつか、ああやって……?)
ぞわりと背中に寒気が走った。自分が鏡の前で、まつげを上げ、口紅を塗る姿なんて――想像したくもない。
(いや、違う。6月には戻るんだ。あくまで仮の姿。これは俺じゃない)
強くそう言い聞かせ、思考を振り払った。
制服に着替える時間になった。乃々香は、淡い桜色のセーラーカラーにプリーツスカートの制服を軽やかにまとう。
あまりに自然な手つきで、まるでその身体がその形に馴染んでいるかのようだった。
りおは、対照的に手間取った。スカートのファスナーの位置を探して手が空回りする。
ぎこちなく足を通し、思わず足をつまずきそうになる。
「こっちだよ、りおちゃん。」
乃々香が笑いながら手助けするが、それすらも屈辱だった。鏡の中の自分は、どう見ても“女の子の制服”を着た“女の子”だった。
(……俺、本当に……女に見えるんだな)
肩のリボンがやけに主張しているように感じて、思わず下を向いた。
中庭に出ると、すでに多くの女子生徒が整列していた。 淡い桜色のセーラーカラーにプリーツスカートという統一された装いが、朝の陽光を浴びて一様に華やかだった。 その中に、自分がいる。
(嫌だ……なんで、俺が……)
自分の足元を見ては、隣の生徒たちの化粧の匂いを感じては、そのたびに羞恥が肌を突き刺してくる。 周囲の女子たちは当然のようにメイクを施し、微笑み合い、仲良さげに話している。
(こんなの、俺のいる場所じゃない……)
名前が呼ばれた。
「佐原りお」
一瞬、躊躇したが、昨日の失敗を思い出す。
「……はいっ!」
返事は自然と明るく、そして高く出てしまった。 その高音が、鼓膜に突き刺さった。頭の奥にまで響き、嫌悪感を誘う。
(俺は……“佐原遼”だ。りおなんかじゃない。これは……偽物なんだ)
胸に張られた名札の「りお」を見つめながら、唇を噛みしめる。整列する姿勢を崩さぬように、爪が手のひらに食い込むほど拳を握った。
入学式は、インテリジェンスコースとインサイトコースの合同で行われた。
壇上に立つ教師たちの背後には、学園の象徴であるエンブレムが大きく掲げられており、その荘厳な雰囲気にりおは一瞬だけ気圧された。
しかし、前方に並ぶインテリジェンスコースの生徒たちを見ると、胸がざわつく。詰襟の制服を着た男子たちが中心で、その凛とした姿が、自分の“本来の居場所”を思い出させた。
(俺は……本当は、あっちだったんだ……)
さらに、その男子に混ざって座る一部の女子生徒たちは、インサイトの女子とは異なり、紺色のセーラー服を着ていた。整然とした振る舞いや、落ち着いた表情。
比べて、自分はどうだ。淡い桜色のセーラーカラーにプリーツスカート。足元まで揃えられた桃色の群れの中に、否応なしに溶け込まされている。
桃色は、目立つ。そして甘い。可愛らしさを強調するような色調が、否応なしに「女の子らしさ」を押しつけてくる。
(あんな紺の制服の子たちよりも、さらに下に見える……俺、なんでこんな……)
羞恥と劣等感が同時に押し寄せた。視線を伏せながら、りおは必死に顔を強張らせていた。 だが、隣にいる女子たちはというと、きゃっきゃと笑い合いながら式の進行すらも楽しんでいる。 目元にラメを乗せ、髪を巻き、爪まで飾ったその様子は、まるで式そのものが彼女たちの舞台か何かのようだった。
(……バカみたいだ。こんな格好、こんな振る舞い……)
見下すような気持ちが湧いたが、それは自分自身への怒りをすり替えるための防衛反応にすぎなかった。
そのとき、視線の先に見知った顔を見つける。白瀬航平――中学時代の友人だった。
詰襟の制服に身を包み、少し緊張したような面持ちで話を聞いている姿に、胸が締め付けられる。
(航平……お前と俺、あの頃は、バカやって笑ってたのに……)
過去の記憶が一瞬で蘇る。校舎の裏でサッカーボールを蹴った日、テストの点数を見せ合ってふざけ合った日。
なのに、今の自分は――スカートを履き、リボンをつけ、桃色に包まれて……女の子として、ここに立たされている。
(違う、違う……俺は、あっちにいるべきだったんだ……)
唇を強く噛みしめた。
(戻れる……6月になれば、きっと……)
教室には、朝よりも少しだけリラックスした空気が流れていた。前の席には同じ制服姿の生徒たちが並び、教師が配布資料を手にしながら説明を始める。
「本校では、すべての授業が選択制です。必修科目はありません。各自の進路や関心に応じて、自由に履修計画を立ててください。ただし、大学進学を考えている人は――」
りおは説明を聞こうと、前を向いていた。
――が、隣の席から、軽い声が飛んでくる。
「ねえ、メイクしないの?」
「……は?」
顔を向けると、隣の女子生徒がひょいと身を乗り出してきた。髪は明るい茶色で、制服の着こなしもどこかゆるい。たぶん、乃々香と同じタイプの“この世界の普通の女子”。
「だってさー、せっかく可愛いのに。ちょっとリップ塗るだけでも違うのに、もったいなーい。」
「いや、俺……じゃなくて、もともと男だったから、そういうの興味ないし。」
「えー、ほんとに?へぇー、でも声とか全然そんな感じしないけど。てか、じゃあ今の生活ってどう?慣れた?部屋、どんな感じ?乃々香ちゃんと同室でしょ?あの子かわいーよねー。」
そこから先は、ほとんど会話というより雑談の嵐だった。質問、感想、リアクションの応酬。 りおは最初こそ適当に答えていたが、次第に押し切られ、半ば楽しげに会話を続けていた。
(あれ、なんの話してたっけ?)
気づけば説明は終わり、教師は「希望調査は明日提出です」と言って資料を回収し始めていた。
(……やっべ、なに一つ聞いてなかった)
そのままぼんやりとしたまま寮に戻り、ベッドの上で配布資料をめくってみたが、用語も、単位の仕組みも、どこを見ればいいかすらさっぱりわからない。
「なあ、乃々香。科目選択って、どうすればいいんだ?」
相談を持ちかけると、彼女はスマートフォンをいじりながら答えた。
「うん、なんでも選べるんだって。とりあえず自分の好きなやつ選んでいいらしいよ。」
「……なんでも?」
なんでも、という言葉に逆に戸惑う。
(好きって言われても、今の俺、好きなものなんて……てか、どれが何の授業なのかも、よくわかんないし)
しばらく沈黙したあと、りおはおずおずと訊いた。
「じゃあ……お前、何選んだの?」
乃々香は笑って、画面を見せてくれた。そこには、きれいに並んだ履修希望のリスト。
「えっとね、『ライフプラン設計』『コミュニケーション演習』『セルフイメージ基礎論』『ジェンダー社会学』『身体表現入門』……あと、『栄養管理概論』とかかな。」
「……それ、全部選ぶの?」
「ううん、仮選択だから。あとで絞るけど、どれも面白そうじゃない?」
正直、どれもピンとこなかった。けれど、なんとなく、真剣に考えて選んでいるように見えて――少しだけ見直した。
(乃々香……もしかして、不真面目そうに見えて、ちゃんと“変わろう”としてるのか?)
それに比べて自分はどうか。興味も関心も薄く、誰かの選択に乗っかろうとしているだけ。
でも、それが悪いことだとも、りおはまだ気づいていなかった。
(まあ、いいか……同じやつにしとけば、困ったとき助けてもらえるし)
深く考えずに、りおは乃々香の履修リストを写し始めた。
とはいえ、いずれ「佐原 遼」として大学受験をするりおは、国語・数学・理科・社会・英語なども履修しなければならないことはわかっていた。 しかし、「数学Ⅰ」「数学A」など記号の付された科目がたくさん並び、まるで区別がつかない。
(国語・数学・理科・社会・英語から1つずつ選んでおけばいいか……。)
りおは、ここでの選択が、自分の今後にどう関わるかなど、まるで想像もしていなかった。
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