木目調の落ち着いた教室。ホワイトボードには「コミュニケーション演習」と書かれていた。
(営業で使える交渉術とか、プレゼンのコツとか、そういうのだと思ってたんだけどな……)
りおは着席しながら、机の上のプリントに目を通す。その内容に、思わず眉をひそめた。
「第一回:好印象を与えるあいづちと話し方」「聞き上手になるためのリアクション練習」
(……これ、そういうやつ?)
教員はニコニコしながら、「今日の目標は、自然に『うんうん』『すごい~!』って言えるようになることです」と言い放つ。
教室のあちこちから、小さくため息や苦笑が漏れた。
授業が始まり、ペアワークで順番に相づちを打つ練習が始まる。
りおは隣の女子に合わせて、「へぇ、すご~い」「それでそれで?」と、カタカナで書き起こせそうなほど明るい口調で相づちを打つ。
そのたびに、自分の声がひどく浮いているような気がして、こめかみがピクついた。
(うわ、何やってんだ俺……いや、今は“わたし”か……)
語尾を伸ばす。語調を上げる。身体を前に傾けて、目を見開く。
「そうなんだ~!」「たしかに~!」
誰かに見られていたら、顔を背けたくなるような演技だった。自分の口から出る言葉の軽さに、身の毛がよだつ。
授業のあと、休み時間の教室で、りおはどんよりとしながら乃々香にぼやいた。
「……なんか思ってたのと違う。交渉っていうより、アイドルの握手会の練習みたいな……。」
乃々香は、ストローでジュースを啜りながら首を傾げる。
「でもさ、相手に気持ちよく話させるって、交渉の基本じゃない?」
「……まぁ、そうかもしれないけど。」
「“かわいく見せる”って部分が気になるの?」
図星だった。りおは視線をそらし、窓の外をぼんやり見た。
「そりゃ、まあ……男だったときは、そんなの意識したことなかったし。」
「今は“だった”なんだね。前よりはちょっと受け入れ始めてる?」
「……してないし。」
反射的に返した自分の声が、さっきの「そうなんだ~!」と同じような抑揚で、それにまた軽く自己嫌悪した。
「でも、うまかったよ。自然だったし。」
「フォローになってないって。」
そう言いつつも、少しだけ心が和らいでいた。
(やるしかないんなら、やるだけか。こんなことで評価が下がるのも嫌だし)
内心を切り替えて、次の演習ではもう少し真面目に声のトーンを意識した。
まだ慣れないけど、違和感を覚えながらも、りおは一歩ずつ“今の自分”に適応していこうとしていた。
午後の授業は、ライフプラン設計。りおは正直、期待していた。 「ライフプラン」という言葉の響きから想像したのは、収支バランスや投資、キャリアアップといった“未来の自分”を描くような授業だったからだ。 だが、教壇に立った教師は、開口一番こう言った。
「今日は、みなさんが“女性として”どんな人生を歩むのかを考えていきましょう。」
一瞬、教室の空気がぴんと張り詰める。りおも、そのひとりだった。
(……えっ、“女性として”って、そっちのライフプラン?)
教師はスライドを映しながら、キャリア形成と妊娠・出産・育児のタイミングの両立、パートナーとの家事・育児分担、女性が陥りがちなキャリアの分断リスクなどを次々と解説していく。
「“男に戻る予定”の自分には、関係ない話だ」と、りおは最初こそ思っていた。 だが、「ダイバーシティ」の話になると、少しずつ態度が変わっていく。
「ライフプランは一つじゃありません。結婚しても、しなくても、子どもを産んでも産まなくても、自分らしい人生を選べる時代です。」
教師はスライドを切り替えながら、さらに具体的な例を挙げていった。
「たとえば――こんな人生設計があります。」
スライドに映し出されたのは、一人の女性のモデルケースだった。
「もちろん、これが正解というわけではありません。就職せずにそのまま専業主婦になる人もいますし、出産しない道を選ぶ人もいます。結婚せず、自分のキャリアをひたすら追求する人もいます。」
さらに、教師は働き方のバリエーションについても触れた。
「今は、契約社員・派遣社員・業務委託・フリーランス……いろいろな働き方があります。 たとえば、週30時間以上働いて一定の条件を満たせば、パートタイマーでも社会保険に加入できます。自分のライフステージに合わせて、働き方を変える人も増えていますよ。」
(……知らなかった)
りおは思わず息をのんだ。 今までは、人生は一列に並んだレールを歩くものだと思っていた。就職して、昇進して、退職して。それが当然だと。 でも目の前のスライドには、“選べる人生”が並んでいた。しかも、それを社会が支えてくれる制度まである。
(俺には関係ない……六月には男に戻るんだから。けど――)
「ライフプラン設計」とは、誰かに強いられるものではない。 自分で選び、自分で形作っていくものだということが、じわじわと理解できてきた。
「次回までに、“あなた自身の”ライフプランを考えてきてください。いまの自分を前提にしても、未来の自分を想像してもかまいません」
その言葉が、りおの胸に残った。 “男に戻る自分”ではなく、“このまま女の子でいる自分”を、ほんの少し――想像してしまっていた。
寮の部屋に戻ると、乃々香がさっそく課題の話を持ち出してきた。 例の、「女性としてのライフプラン設計」というやつだ。りおは内心うんざりしていた。 正直、自分の“女としての将来”なんて想像する意味があるとは思えなかったし、なにより居心地が悪い。
「……とりあえず、男に戻って、大学進学して、普通に就職って感じで――。」
「ダメ。それじゃ授業の内容と違うじゃん。」
すかさず、乃々香の声が飛ぶ。 彼女はもうプリントを机に広げ、真面目な顔でペンを構えていた。
「今の自分が“女の子”っていう前提で考えなきゃ。授業中にも言われたでしょ?」
「……でも俺は――」
「いまは“わたし”ね。先生にも何回も注意されてたじゃん。」
まるで母親みたいな乃々香の口ぶりに、りおはしぶしぶ口をつぐんだ。 結局、りおはプリントに手をつけることもできず、乃々香の言う通りに動くしかなかった。
「何も思いつかないなら、私が手伝ってあげる。たとえば大学で彼氏ができて、卒業後に結婚して、子どもを産んで……」
「……それ、テンプレじゃないか?」
「でも、一番現実的でもあるよ?」
そう言って、乃々香はりおのプリントにスラスラと例を書き始めた。 りおはただそれを見て、流されるままにペンを動かしていく。 まるで自分の人生設計でなく、乃々香の設計図を写しているだけだった。
「……書けた、けど。」
乃々香が満足げに微笑んでる隣で、りおは苦笑した。 書いたはいいが、どこまでいっても、これはりおの設計図じゃない。 そもそも“俺”が彼氏を作って結婚して子ども産むとか、ありえないにもほどがある。
「……こんなの、現実にはならないけどな。」
そうつぶやくりおに、乃々香が何気なく返す。
「そうかな? けっこう似合ってたよ。」
「……冗談やめろって。」
鼻で笑ってごまかしたけど――
どういうわけか、さっきより少しだけ、胸の奥がもぞもぞと騒がしくなっていた。
(ほんとに、俺が……女だったら?)
答えの出ない問いが、頭の片隅に居座り続けていた。
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