【第七話】女子高生になった俺、次の試験で絶対男に戻る


目次


 

1.アルバイト

 インテリジェンスコースでは、すでに教科書を使わず、大学入試向けの参考書や過去問をもとに授業が進んでいる―― そんな話を、ひよりから聞かされたのは、放課後の帰り道だった。

「えっ、参考書? 過去問?」

「うん。インテリジェンスコースは、もう大学入試向けに授業してるって、先生が言ってたよ。教科書だけだと、レベルが合わないみたいで……」

 無邪気に答えるひよりを前に、りおは顔を引きつらせた。 図書室で借りた教科書を必死に読み込んでいた自分が、まるで滑稽に思える。追いつくどころか、初めから道を違えていたのだ。
(……くそっ、参考書……!)
 独学するしかない。だが、問題は金だった。 親に頭を下げるのは、情けなくてできそうになかった。何より――今の自分の惨状を、家族に知られたくなかった。 そんなとき、乃々香がにこにこしながら言った。

「ねぇ、りおちゃん。私、カフェのバイト始めるんだ〜!りおちゃんも一緒にやらない?」

 最初は驚いたが、話を聞くうちに興味が湧いてきた。 女子寮では「原則アルバイトは禁止だが、学校が認定した一部の仕事に限り、届け出をすれば従事できる」というルールがある。認定バイトなら、門限も免除される。 閉鎖された女子寮から、ほんの少しでも解放されるなら――悪くない話だった。

 りおはすぐに時給と勤務時間を計算した。 夏休みまでに10冊以上の参考書を買うのも夢ではない。胸が高鳴った。


 急いで応募し、面接へと向かった。 小さなカフェの一角、白いテーブルを挟んで、店長と向き合う。

「じゃあ、簡単に自己紹介からお願いできる?」

「あ、はいっ……!」

 声を出した瞬間、自分でも驚いた。 自然と、高く明るい声が出ていた。 姿勢も、手の置き方も、会話の間も――無意識に、これまで授業で練習してきた「女性らしい受け答え」が出ていた。
(……演習、ちゃんと身についてたんだな……)
 店長は感心したように頷いた。

「元気があっていいね。笑顔も自然だし、お客さん受けしそうだ。」

 拍子抜けするほどあっさり、合格だった。
(……よしっ!)
 帰り道、思わずガッツポーズをとりかけたりおだったが、 その直後、乃々香のひと言で凍りつくことになる。

「じゃあ、出勤日はメイク必須だね。」

「……メ、メイク……?」

 声が裏返った。 乃々香は悪びれる様子もなく、にっこり微笑んだ。

「カフェのお姉さんだもん、ちゃんとしないとね!」

 その瞬間だった。りおの胸の奥に、冷たいものが流れ込んできた。

(――そうだ。俺、女性として働くんだ。 しかも、堂々と客の前に立って、笑って、接客して……)

「女性として勤務する」という現実を、ろくに考えもせずに飛びついてしまった自分の愚かさに気づく。 さらに、6月には「男に戻るはず」だったことを思い出し、血の気が引いた。

(……どうすんだよ、これ。 メイクなんか覚えたって、あと二ヶ月もしないうちに……)

 胸にずしりと重たい後悔が広がった。自身の軽率さを呪う。 だが、もう面接に合格してしまった。後戻りはできない。

 自分で選んだくせに、選んだ結果を想像していなかった。 目先の参考書、門限の緩和――そんな甘い誘いに飛びつき、 自分自身で、逃げ場を塞いでしまったのだ。

 りおは立ち尽くしたまま、ただ茫然と、夕暮れの空を見上げた。


2.コスメ講習会

 六月を間近に控えたある日、校内にこんなアナウンスが流れた。

「化粧品メーカーによるコスメ講習会を、インサイトコース対象に実施します。」

(……何それ……)

 りおは眉をひそめた。 インサイトコースに進む以上、こうした講習も「女性らしいたしなみ」の一環なのだろう。
 乃々香に手を引かれ、渋々ながら講習会場の教室へ向かった。 アルバイトでメイク必須と言われた手前、逃げるわけにもいかなかった。

 広々とした教室に入ると、すでに華やかな化粧品のセットがずらりと並んでいた。 白衣をまとったメイクアップアーティストが笑顔で迎え入れる。 講習が始まると、プロの手際の良さに思わず目を見張った。

「ベースメイクは肌作りが命。軽く叩き込むようにファンデーションを……」 「眉は、元の骨格を活かして自然に仕上げるのがポイントです。」

 実演を見ながら、手元のコスメを真似ていく。 教わるままにパフを当て、ブラシを滑らせるたびに、鏡の中の自分の顔が、少しずつ変わっていく。
 最初は戸惑いしかなかった。 だが、ベースが整い、眉が整えられ、リップをひと塗りすると――

(……あれ……?)

 目の前に映る自分が、ほんの少し、可愛くなっていた。 顔色が明るくなり、目元がはっきりして、にっこり笑ったとき、まるで「本物の女の子」みたいだった。

(な、なんだこれ……)

 頬がじんわり熱を持つ。 くすぐったいような、嬉しいような、言葉にできない感情が、胸の奥に湧き上がった。
 まるで、女の子たちと一緒に「同じ世界」を生きているような――そんな、一体感。
 気づけば、りおは無意識に、乃々香と顔を見合わせて笑っていた。

(……やばい。楽しい……)

 かつて「学校へメイクしていく」という行為を「頭の悪いこと」だと考え、見下していた自分を思い出し、その傲慢さを恥じた。

 ふと、数日前、図書室で航平と目が合った場面が脳裏によみがえった。 永遠にも感じられるあの瞬間、航平は何か言いたげな様子だった。 もし、今度すれ違ったら……そう思うと、怖くてたまらない。

(もしかして……)

 講習中、ふと横を見れば、インサイトコースの女子たちは誰もがナチュラルにメイクを施していた。 むしろ素顔のままの自分のほうが、目立っていたのかもしれない。

(……俺も、ちゃんとメイクしてたら。今後、航平とすれ違っても、気づかれずに済むかも……)

 心にひとつ、希望が灯った。

 講習の最後、化粧品メーカーからサンプルキットが配られた。 ファンデーション、アイブロウ、リップ、チーク……一式そろったコスメポーチを手に、りおは女子寮に戻った。


 翌朝、乃々香に誘われるまま、並んでメイクを始める。鏡を覗き込み、手順通りにパフを叩き、眉を描く。

(まさか、俺が……)

 チークをぼかしながら、りおは心の中で苦笑した。 ほんの少し前まで、バカにしていた「女子の朝支度」を、今や、自分が――当然のようにやっている。

(……バカみたいだな、俺)

 自嘲気味に唇を歪めながらも、仕上がった顔を鏡で見た瞬間、 またあの、くすぐったい高揚感が胸を満たしていった。

 鏡の中にいたのは、昨日よりも少し、可愛くなった自分だった。

(……これなら、大丈夫、かな)

 手を握り締め、心臓が跳ねるのをなだめながら、寮を出た。
 登校路。すれ違う女子生徒たちの視線が、やたらと気になる。

(そんなに見ないでくれ……!)

 被害妄想ぎみになりながらも、誰も「おかしい」とは言わない。 むしろ、何人かの女子が、軽く会釈を返してくれる。
 教室に着くと、ひよりが駆け寄ってきた。

「りおちゃん、おはよっ。……あれ、今日、なんか雰囲気違う?」

(や、やっぱり……!?)

 内心でぎゅっと身をすくめたが、ひよりはふわりと笑った。

「いい感じだよ。可愛い。」

(……えっ)

 思わず固まった。心臓が、びくりと跳ねた。
 ひよりだけじゃない。クラスの女子たちが、口々に「可愛いね」「雰囲気変わった」と声をかけてくれる。

(……メイクって、すごいな……)

 驚きと安堵が、じわりと胸に広がる。
 けれど同時に――ほんの小さな、拭いきれない罪悪感が、心の隅に滲んでいた。

(……俺、こんなことして、いいのか……)

 6月になれば、もとの「男」に戻る。それなのに。 こうして、「女の子としての普通」を手に入れたことに、どこか嬉しさを覚えている自分がいる。

(……俺、どうするんだよ……)

 笑顔で「ありがとう」と答えながら、りおの心は、誰にも見えないところで、そっと軋み始めていた。


3.初出勤

 カフェで渡された制服を見た瞬間、りおは固まった。

(……これ、メイド服じゃん)

 真っ白なエプロン。ふわりと広がるスカート。リボンタイに、繊細なレースの飾り。

 一方の男用の制服――黒のスーツ姿でキビキビ働くスタッフたちを横目に、ふと思う。
(本来なら、あっちを着てた、はずなのに……)
 けれど、もしインテリジェンスコースに通っていたら、そもそもアルバイトなどしていなかっただろう。

 たったひとつの選択が、
 少しの違いが、
 こんなにも人生を変える。

 その現実を、重たく、でも確かに、実感する。

「よし、りおちゃん、こっち来て!」

 明るい声で乃々香に呼ばれ、鏡の前に座る。
 髪をきゅっと結われ、慣れない手つきでメイクを施すと――
 鏡に映った自分は、まるで絵本の中から抜け出してきたかのような、可愛い少女だった。
(……これ、俺か?)
 胸が、どくん、と跳ねた。

「似合ってるよ、りおちゃん!」

 乃々香が笑いかける。
(……マズい。可愛くなって、喜んでる自分がいる……)
 戸惑いながらも、制服の裾を整え、深呼吸する。

 そして、勤務開始。

 最初に出会ったのは、同じ新人の結城智也だった。

「よ、よろしくお願いします……。」

 彼は身長が高く、すらりとした体型をしている。端正な顔立ちに、素朴な雰囲気。
(……イケメンじゃん)
 無意識に、女子目線で評価してしまう自分に気づき、ぎょっとする。

 けれど智也は、ひどく緊張しているらしく、りおと目を合わせると、すぐに逸らしてしまった。 その不器用な仕草に、なぜか親近感が湧いた。かつて、自分もこんなふうに女子と接していた気がする。

(……頑張れ、俺も頑張るから)


 カフェ自体は、いわゆる「メイドカフェ」ではなかった。 内装はヨーロッパ風の上品な作りで、コーヒー一杯が時給より高いという現実に、ひそかに驚く。 けれど、「制服姿で、笑顔で給仕する」という行為には、やはり羞恥心を覚えずにはいられなかった。

 最初のお客様を迎えるとき、手が小刻みに震える。
(……落ち着け、演習でやったことを思い出せ)

「いらっしゃいませ。ご案内いたします。」

 自然と、高く、柔らかな声が出た。背筋を伸ばし、にこやかに振る舞う。
――女性らしい話し方。
――女性らしい立ち居振る舞い。
 あの日々の訓練が、ここで生きてしまっていることに、複雑な気持ちになる。

「本日はどのようなメニューをご希望でしょうか?」

「……あぁ、えっと、おすすめってあります?」

 サラリーマン風の男性が、少し困ったようにメニューを眺める。

「はい、当店おすすめのブレンドコーヒーは、コクがありながらも後味がすっきりとしております。ケーキセットですと、本日限定のチョコレートタルトがございます。」

 自然と口から流れるように言葉が出た。
(うわ、接客トーク、染みついてる……!)

「じゃあ、それにしようかな。君、おすすめ上手だね。」

「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ。」

 にこりと笑って頭を下げると、男性が少し照れたように微笑んだ。
(やばい……これ、女の子として好かれてる感じだ……!)

 胸の奥がざわつきながらも、提供時にはきちんと膝を折り、トレーを支えて姿勢よく。 客たちの視線を感じるたび、スカートの裾を無意識に摘まみたくなるほど、恥ずかしかった。
 けれど、同僚たちの「りおちゃん、可愛い〜!」という声に、心のどこかで、くすぐったい喜びを覚えてしまっていた。


 勤務終了後。

 制服を脱ぎ、控室で荷物をまとめながら、隣で同じく着替えを終えた智也が、ぎこちなく話しかけてきた。

「りおさん、今日は……すごく、接客うまかったですね。」

「そ、そんなことないですよ。むしろ、緊張してばっかで……。」

 笑いながら答えると、智也も小さく笑った。

「僕、人と話すの、あんまり得意じゃないんですけど……今日、一緒に働けて、ちょっと安心しました。」

「えっ、ほんとですか?」

 予想外の言葉に驚くりお。それに智也は、少しだけ顔を赤くした。

「はい。あ、すみません、自己紹介が遅れました。僕、結城智也と言います。よろしくお願いします。」
 智也は小さく頭を下げた。

「わたしは、佐原りおです。よろしくお願いします!」

「それで……りおさんは、高校生のようですけど、近くの学校に通っているんですか?」

 智也の問いに、りおは首をかしげながら答える。

「わたしは桜栄学園の……インサイトコースに通っています。智也くんはどちらに?」

 その問いに、智也は少し間を置いてから言った。

「僕は、帝国大学に在籍しています。化学科の1年生です。」

「帝国大学……!?」

 りおは、驚きのあまり思わず声を上げてしまった。 誰もが知る名門大学の名前に、思わず圧倒される。

「す、すごい……! 帝国大学って、あの……超難関の?」

 智也は少し顔を赤くしながら、うなずいた。

「はい、そうです……。でも、僕、理系で……コミュニケーションが苦手で。だから、少しでも人と話す力をつけたくて、このアルバイトを選びました。」

「そうなんですね……!」

 りおは、智也の言葉に真剣に耳を傾けた。 彼のように頭の良い人でも、悩みを持っていて、それを克服しようと努力しているのだと知り、改めて尊敬の念が湧き上がる。

「帝国大学に通っているなんて、すごいなぁ……。でも、コミュニケーションが苦手なんて、ちょっと意外です。」

 智也は少し苦笑しながら言った。

「はい、見た目とか、成績のこととか、いろいろ期待されることが多いんですけど、実際に話すとなると……どうしても緊張しちゃうんです。」

「なるほど、でも、一日働いてみて、少し慣れたんじゃないですか?」

「そうですね……最初は本当に怖かったけど、りおさんが優しく接してくれたおかげで、少し楽になりました。」

 智也がそう言うと、りおは少し顔を赤らめながら、うつむき加減で言った。

「わたしも、智也くんと話せてよかったです。緊張しちゃってたけど、少し安心しました。」

「本当ですか?」
「ありがとうございます、りおさん」

 その笑顔に、りおは胸がドキドキして、しばらく言葉を失った。

 しばらく無言で立ち尽くす二人。 それでも、少しずつ、ほんの少しだけ、距離が縮まっていくのを感じる。 その後、りおは自然に声を出した。

「わたしも、少しずつ、慣れてきた気がします。これから、もっとお互いに頑張っていきましょうね。」

 智也は、少し照れくさそうにうなずきながら言った。

「うん、そうですね。お互いに、少しずつ成長していけたらいいな。」

 その言葉に、りおは再び胸が温かくなるのを感じた。


 カフェを出て、夜風が心地よい道を、りおと乃々香は並んで歩いていた。 

「ふぅ~、お疲れさま、りおちゃん!」

「……ああ。お疲れさま。」

 制服のリボンを少し緩めながら、りおは何気なく、今日のことを思い返していた。
──そのとき、ふと気づく。

(……あれ?俺、女になってから……男相手にまともに会話したの、初めてじゃないか?)

 意識した瞬間、心臓がドクンと脈打った。 しかも、女の子として──自然に話していた自分に、今さらゾッとする。 そんなりおの内心も知らず、乃々香がにこっと笑いながら言った。

「ねえねえ、りおちゃん、今日、すっごく自然だったよ。」

「……え?」

「智也くんと話してるとき、ちゃんと女の子だったもん。見ててほっこりしたよ~。」

「ち、ちが、違う……!」

 思わず声が裏返った。そんなつもりじゃなかった。仕事だから、カフェの接客だから、女らしくしてただけだ。それなのに──

(……女の子だった、だと?そんなはずない、俺は……)

 自分自身への嫌悪感がこみあげる。 でも、それでも──どこかで、ほんの少し、褒められたことが嬉しかった。その矛盾が、ますます苛立たせた。 さらに追い打ちをかけるように、乃々香がにやにや顔で耳打ちしてきた。

「しかもさ~、智也くんといい感じだったし? 帝国大学とか、超ハイスペックじゃん。りおちゃん、いい男ひっかけたね♡」

「な、なに言ってんだ!!違うってば!!」

 りおは全力で否定した。
 顔が熱い。耳まで熱い。
 わけがわからない。

 ぶつぶつと抗議する俺を見て、乃々香はくすくすと笑った。

「はいはい、わかったってば~。」

 まるで子供をあやすみたいな声。りおは顔を背けた。どんな顔をしていいかわからなかった。
(くそ……仕事で女の振る舞い、してるだけだっていうのに……)
 自分を必死に言い聞かせながら、でも心の奥底で、ほんの少しだけ湧き上がる「認められた」ことの喜びを、どうすることもできなかった。

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