インテリジェンスコースでは、すでに教科書を使わず、大学入試向けの参考書や過去問をもとに授業が進んでいる―― そんな話を、ひよりから聞かされたのは、放課後の帰り道だった。
「えっ、参考書? 過去問?」
「うん。インテリジェンスコースは、もう大学入試向けに授業してるって、先生が言ってたよ。教科書だけだと、レベルが合わないみたいで……」
無邪気に答えるひよりを前に、りおは顔を引きつらせた。
図書室で借りた教科書を必死に読み込んでいた自分が、まるで滑稽に思える。追いつくどころか、初めから道を違えていたのだ。
(……くそっ、参考書……!)
独学するしかない。だが、問題は金だった。
親に頭を下げるのは、情けなくてできそうになかった。何より――今の自分の惨状を、家族に知られたくなかった。
そんなとき、乃々香がにこにこしながら言った。
「ねぇ、りおちゃん。私、カフェのバイト始めるんだ〜!りおちゃんも一緒にやらない?」
最初は驚いたが、話を聞くうちに興味が湧いてきた。 女子寮では「原則アルバイトは禁止だが、学校が認定した一部の仕事に限り、届け出をすれば従事できる」というルールがある。認定バイトなら、門限も免除される。 閉鎖された女子寮から、ほんの少しでも解放されるなら――悪くない話だった。
りおはすぐに時給と勤務時間を計算した。 夏休みまでに10冊以上の参考書を買うのも夢ではない。胸が高鳴った。
急いで応募し、面接へと向かった。 小さなカフェの一角、白いテーブルを挟んで、店長と向き合う。
「じゃあ、簡単に自己紹介からお願いできる?」
「あ、はいっ……!」
声を出した瞬間、自分でも驚いた。
自然と、高く明るい声が出ていた。
姿勢も、手の置き方も、会話の間も――無意識に、これまで授業で練習してきた「女性らしい受け答え」が出ていた。
(……演習、ちゃんと身についてたんだな……)
店長は感心したように頷いた。
「元気があっていいね。笑顔も自然だし、お客さん受けしそうだ。」
拍子抜けするほどあっさり、合格だった。
(……よしっ!)
帰り道、思わずガッツポーズをとりかけたりおだったが、
その直後、乃々香のひと言で凍りつくことになる。
「じゃあ、出勤日はメイク必須だね。」
「……メ、メイク……?」
声が裏返った。 乃々香は悪びれる様子もなく、にっこり微笑んだ。
「カフェのお姉さんだもん、ちゃんとしないとね!」
その瞬間だった。りおの胸の奥に、冷たいものが流れ込んできた。
(――そうだ。俺、女性として働くんだ。 しかも、堂々と客の前に立って、笑って、接客して……)
「女性として勤務する」という現実を、ろくに考えもせずに飛びついてしまった自分の愚かさに気づく。 さらに、6月には「男に戻るはず」だったことを思い出し、血の気が引いた。
(……どうすんだよ、これ。 メイクなんか覚えたって、あと二ヶ月もしないうちに……)
胸にずしりと重たい後悔が広がった。自身の軽率さを呪う。 だが、もう面接に合格してしまった。後戻りはできない。
自分で選んだくせに、選んだ結果を想像していなかった。 目先の参考書、門限の緩和――そんな甘い誘いに飛びつき、 自分自身で、逃げ場を塞いでしまったのだ。
りおは立ち尽くしたまま、ただ茫然と、夕暮れの空を見上げた。
六月を間近に控えたある日、校内にこんなアナウンスが流れた。
「化粧品メーカーによるコスメ講習会を、インサイトコース対象に実施します。」
(……何それ……)
りおは眉をひそめた。
インサイトコースに進む以上、こうした講習も「女性らしいたしなみ」の一環なのだろう。
乃々香に手を引かれ、渋々ながら講習会場の教室へ向かった。
アルバイトでメイク必須と言われた手前、逃げるわけにもいかなかった。
広々とした教室に入ると、すでに華やかな化粧品のセットがずらりと並んでいた。 白衣をまとったメイクアップアーティストが笑顔で迎え入れる。 講習が始まると、プロの手際の良さに思わず目を見張った。
「ベースメイクは肌作りが命。軽く叩き込むようにファンデーションを……」 「眉は、元の骨格を活かして自然に仕上げるのがポイントです。」
実演を見ながら、手元のコスメを真似ていく。
教わるままにパフを当て、ブラシを滑らせるたびに、鏡の中の自分の顔が、少しずつ変わっていく。
最初は戸惑いしかなかった。
だが、ベースが整い、眉が整えられ、リップをひと塗りすると――
(……あれ……?)
目の前に映る自分が、ほんの少し、可愛くなっていた。 顔色が明るくなり、目元がはっきりして、にっこり笑ったとき、まるで「本物の女の子」みたいだった。
(な、なんだこれ……)
頬がじんわり熱を持つ。
くすぐったいような、嬉しいような、言葉にできない感情が、胸の奥に湧き上がった。
まるで、女の子たちと一緒に「同じ世界」を生きているような――そんな、一体感。
気づけば、りおは無意識に、乃々香と顔を見合わせて笑っていた。
(……やばい。楽しい……)
かつて「学校へメイクしていく」という行為を「頭の悪いこと」だと考え、見下していた自分を思い出し、その傲慢さを恥じた。
ふと、数日前、図書室で航平と目が合った場面が脳裏によみがえった。 永遠にも感じられるあの瞬間、航平は何か言いたげな様子だった。 もし、今度すれ違ったら……そう思うと、怖くてたまらない。
(もしかして……)
講習中、ふと横を見れば、インサイトコースの女子たちは誰もがナチュラルにメイクを施していた。 むしろ素顔のままの自分のほうが、目立っていたのかもしれない。
(……俺も、ちゃんとメイクしてたら。今後、航平とすれ違っても、気づかれずに済むかも……)
心にひとつ、希望が灯った。
講習の最後、化粧品メーカーからサンプルキットが配られた。 ファンデーション、アイブロウ、リップ、チーク……一式そろったコスメポーチを手に、りおは女子寮に戻った。
翌朝、乃々香に誘われるまま、並んでメイクを始める。鏡を覗き込み、手順通りにパフを叩き、眉を描く。
(まさか、俺が……)
チークをぼかしながら、りおは心の中で苦笑した。 ほんの少し前まで、バカにしていた「女子の朝支度」を、今や、自分が――当然のようにやっている。
(……バカみたいだな、俺)
自嘲気味に唇を歪めながらも、仕上がった顔を鏡で見た瞬間、 またあの、くすぐったい高揚感が胸を満たしていった。
鏡の中にいたのは、昨日よりも少し、可愛くなった自分だった。
(……これなら、大丈夫、かな)
手を握り締め、心臓が跳ねるのをなだめながら、寮を出た。
登校路。すれ違う女子生徒たちの視線が、やたらと気になる。
(そんなに見ないでくれ……!)
被害妄想ぎみになりながらも、誰も「おかしい」とは言わない。
むしろ、何人かの女子が、軽く会釈を返してくれる。
教室に着くと、ひよりが駆け寄ってきた。
「りおちゃん、おはよっ。……あれ、今日、なんか雰囲気違う?」
(や、やっぱり……!?)
内心でぎゅっと身をすくめたが、ひよりはふわりと笑った。
「いい感じだよ。可愛い。」
(……えっ)
思わず固まった。心臓が、びくりと跳ねた。
ひよりだけじゃない。クラスの女子たちが、口々に「可愛いね」「雰囲気変わった」と声をかけてくれる。
(……メイクって、すごいな……)
驚きと安堵が、じわりと胸に広がる。
けれど同時に――ほんの小さな、拭いきれない罪悪感が、心の隅に滲んでいた。
(……俺、こんなことして、いいのか……)
6月になれば、もとの「男」に戻る。それなのに。 こうして、「女の子としての普通」を手に入れたことに、どこか嬉しさを覚えている自分がいる。
(……俺、どうするんだよ……)
笑顔で「ありがとう」と答えながら、りおの心は、誰にも見えないところで、そっと軋み始めていた。
カフェで渡された制服を見た瞬間、りおは固まった。
(……これ、メイド服じゃん)
真っ白なエプロン。ふわりと広がるスカート。リボンタイに、繊細なレースの飾り。
一方の男用の制服――黒のスーツ姿でキビキビ働くスタッフたちを横目に、ふと思う。
(本来なら、あっちを着てた、はずなのに……)
けれど、もしインテリジェンスコースに通っていたら、そもそもアルバイトなどしていなかっただろう。
たったひとつの選択が、
少しの違いが、
こんなにも人生を変える。
その現実を、重たく、でも確かに、実感する。
「よし、りおちゃん、こっち来て!」
明るい声で乃々香に呼ばれ、鏡の前に座る。
髪をきゅっと結われ、慣れない手つきでメイクを施すと――
鏡に映った自分は、まるで絵本の中から抜け出してきたかのような、可愛い少女だった。
(……これ、俺か?)
胸が、どくん、と跳ねた。
「似合ってるよ、りおちゃん!」
乃々香が笑いかける。
(……マズい。可愛くなって、喜んでる自分がいる……)
戸惑いながらも、制服の裾を整え、深呼吸する。
そして、勤務開始。
最初に出会ったのは、同じ新人の結城智也だった。
「よ、よろしくお願いします……。」
彼は身長が高く、すらりとした体型をしている。端正な顔立ちに、素朴な雰囲気。
(……イケメンじゃん)
無意識に、女子目線で評価してしまう自分に気づき、ぎょっとする。
けれど智也は、ひどく緊張しているらしく、りおと目を合わせると、すぐに逸らしてしまった。 その不器用な仕草に、なぜか親近感が湧いた。かつて、自分もこんなふうに女子と接していた気がする。
(……頑張れ、俺も頑張るから)
カフェ自体は、いわゆる「メイドカフェ」ではなかった。 内装はヨーロッパ風の上品な作りで、コーヒー一杯が時給より高いという現実に、ひそかに驚く。 けれど、「制服姿で、笑顔で給仕する」という行為には、やはり羞恥心を覚えずにはいられなかった。
最初のお客様を迎えるとき、手が小刻みに震える。
(……落ち着け、演習でやったことを思い出せ)
「いらっしゃいませ。ご案内いたします。」
自然と、高く、柔らかな声が出た。背筋を伸ばし、にこやかに振る舞う。
――女性らしい話し方。
――女性らしい立ち居振る舞い。
あの日々の訓練が、ここで生きてしまっていることに、複雑な気持ちになる。
「本日はどのようなメニューをご希望でしょうか?」
「……あぁ、えっと、おすすめってあります?」
サラリーマン風の男性が、少し困ったようにメニューを眺める。
「はい、当店おすすめのブレンドコーヒーは、コクがありながらも後味がすっきりとしております。ケーキセットですと、本日限定のチョコレートタルトがございます。」
自然と口から流れるように言葉が出た。
(うわ、接客トーク、染みついてる……!)
「じゃあ、それにしようかな。君、おすすめ上手だね。」
「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ。」
にこりと笑って頭を下げると、男性が少し照れたように微笑んだ。
(やばい……これ、女の子として好かれてる感じだ……!)
胸の奥がざわつきながらも、提供時にはきちんと膝を折り、トレーを支えて姿勢よく。
客たちの視線を感じるたび、スカートの裾を無意識に摘まみたくなるほど、恥ずかしかった。
けれど、同僚たちの「りおちゃん、可愛い〜!」という声に、心のどこかで、くすぐったい喜びを覚えてしまっていた。
勤務終了後。
制服を脱ぎ、控室で荷物をまとめながら、隣で同じく着替えを終えた智也が、ぎこちなく話しかけてきた。
「りおさん、今日は……すごく、接客うまかったですね。」
「そ、そんなことないですよ。むしろ、緊張してばっかで……。」
笑いながら答えると、智也も小さく笑った。
「僕、人と話すの、あんまり得意じゃないんですけど……今日、一緒に働けて、ちょっと安心しました。」
「えっ、ほんとですか?」
予想外の言葉に驚くりお。それに智也は、少しだけ顔を赤くした。
「はい。あ、すみません、自己紹介が遅れました。僕、結城智也と言います。よろしくお願いします。」
智也は小さく頭を下げた。
「わたしは、佐原りおです。よろしくお願いします!」
「それで……りおさんは、高校生のようですけど、近くの学校に通っているんですか?」
智也の問いに、りおは首をかしげながら答える。
「わたしは桜栄学園の……インサイトコースに通っています。智也くんはどちらに?」
その問いに、智也は少し間を置いてから言った。
「僕は、帝国大学に在籍しています。化学科の1年生です。」
「帝国大学……!?」
りおは、驚きのあまり思わず声を上げてしまった。 誰もが知る名門大学の名前に、思わず圧倒される。
「す、すごい……! 帝国大学って、あの……超難関の?」
智也は少し顔を赤くしながら、うなずいた。
「はい、そうです……。でも、僕、理系で……コミュニケーションが苦手で。だから、少しでも人と話す力をつけたくて、このアルバイトを選びました。」
「そうなんですね……!」
りおは、智也の言葉に真剣に耳を傾けた。 彼のように頭の良い人でも、悩みを持っていて、それを克服しようと努力しているのだと知り、改めて尊敬の念が湧き上がる。
「帝国大学に通っているなんて、すごいなぁ……。でも、コミュニケーションが苦手なんて、ちょっと意外です。」
智也は少し苦笑しながら言った。
「はい、見た目とか、成績のこととか、いろいろ期待されることが多いんですけど、実際に話すとなると……どうしても緊張しちゃうんです。」
「なるほど、でも、一日働いてみて、少し慣れたんじゃないですか?」
「そうですね……最初は本当に怖かったけど、りおさんが優しく接してくれたおかげで、少し楽になりました。」
智也がそう言うと、りおは少し顔を赤らめながら、うつむき加減で言った。
「わたしも、智也くんと話せてよかったです。緊張しちゃってたけど、少し安心しました。」
「本当ですか?」
「ありがとうございます、りおさん」
その笑顔に、りおは胸がドキドキして、しばらく言葉を失った。
しばらく無言で立ち尽くす二人。 それでも、少しずつ、ほんの少しだけ、距離が縮まっていくのを感じる。 その後、りおは自然に声を出した。
「わたしも、少しずつ、慣れてきた気がします。これから、もっとお互いに頑張っていきましょうね。」
智也は、少し照れくさそうにうなずきながら言った。
「うん、そうですね。お互いに、少しずつ成長していけたらいいな。」
その言葉に、りおは再び胸が温かくなるのを感じた。
カフェを出て、夜風が心地よい道を、りおと乃々香は並んで歩いていた。
「ふぅ~、お疲れさま、りおちゃん!」
「……ああ。お疲れさま。」
制服のリボンを少し緩めながら、りおは何気なく、今日のことを思い返していた。
──そのとき、ふと気づく。
(……あれ?俺、女になってから……男相手にまともに会話したの、初めてじゃないか?)
意識した瞬間、心臓がドクンと脈打った。 しかも、女の子として──自然に話していた自分に、今さらゾッとする。 そんなりおの内心も知らず、乃々香がにこっと笑いながら言った。
「ねえねえ、りおちゃん、今日、すっごく自然だったよ。」
「……え?」
「智也くんと話してるとき、ちゃんと女の子だったもん。見ててほっこりしたよ~。」
「ち、ちが、違う……!」
思わず声が裏返った。そんなつもりじゃなかった。仕事だから、カフェの接客だから、女らしくしてただけだ。それなのに──
(……女の子だった、だと?そんなはずない、俺は……)
自分自身への嫌悪感がこみあげる。 でも、それでも──どこかで、ほんの少し、褒められたことが嬉しかった。その矛盾が、ますます苛立たせた。 さらに追い打ちをかけるように、乃々香がにやにや顔で耳打ちしてきた。
「しかもさ~、智也くんといい感じだったし? 帝国大学とか、超ハイスペックじゃん。りおちゃん、いい男ひっかけたね♡」
「な、なに言ってんだ!!違うってば!!」
りおは全力で否定した。
顔が熱い。耳まで熱い。
わけがわからない。
ぶつぶつと抗議する俺を見て、乃々香はくすくすと笑った。
「はいはい、わかったってば~。」
まるで子供をあやすみたいな声。りおは顔を背けた。どんな顔をしていいかわからなかった。
(くそ……仕事で女の振る舞い、してるだけだっていうのに……)
自分を必死に言い聞かせながら、でも心の奥底で、ほんの少しだけ湧き上がる「認められた」ことの喜びを、どうすることもできなかった。
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