自然と、乃々香、ひよりと三人で勉強会をすることが増えていた。 以前のりおなら、わざわざ女の子同士の輪に加わるなんて考えられなかったはずだ。 そんな自分の変化に、苦笑いが漏れる。
場所は、りおと乃々香の部屋。
図書室に行くのは、やはり怖かった。
航平に――”元の俺”を知るあいつに――出くわすかもしれない、という恐怖心は、まだ消えていない。
だから、ひよりが持っている参考書を頼りに、一緒に問題に取り組むのが定番になっていた。
彼女の参考書は、隅から隅までびっしりと文字で埋め尽くされていた。
教科書の欄外には小さな字で解説が書き加えられ、間違えた問題には何度も何度も訂正の跡が残っている。
付箋も何枚も貼られ、色とりどりのマーカーで線が引かれていた。
思わず、りおは目を瞬かせた。
(……こんなに、やってたんだ)
(バイト代が入ったら、自分でも参考書を選びに行こう)
そんなことを思いながら、問題集に目を落とす。
「うーん……ここ、まだ微妙に自信ないな……」
ひよりが唸る声に顔を上げると、必死にノートとにらめっこしている姿が目に入った。
(すごいな、ひより)
入学当初、正直言って、メイクして髪を明るく染めたひよりのことは内心、格下に見ていた。 でも今は、違う。まだ完璧じゃない。けど、確実に力をつけている。 その成長ぶりに、りおは素直に感心して、口に出した。
「ひよりって、実はもともと勉強できたんじゃないの?」
すると、ひよりは照れたように笑って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「中学のときはね……遅刻とか欠席とか、けっこう多くて。 内申もあんまりよくなかったし、『不真面目な生徒』って思われてたんだ。」
「意外だな。今のひより、全然そんなふうに見えないけど。」
「うん。でも――担任の先生が言ってくれたの。 『ひよりはバカじゃない。ただ、人に期待されてこなかっただけだ』って。」
それを聞いた瞬間、胸に小さな痛みが走った。
ひよりは続けた。
「それが、すごく嬉しくて。……だったら、証明してやろうって思った。 高校では、ちゃんと大学を目指すって決めたんだ。家ではまだ、あんまり信じてもらえてないけどね。 でも、心の中では――いつか絶対、見返してやるって思ってる。」
そう言って、ひよりはにかむ。 その表情には、強い芯のようなものが宿っていた。
(……やっぱりすごいよ、ひより)
りおは、ひよりのことを偏差値だけで測っていた。 「勉強できるか、できないか」。それだけ。でも、本当は違った。 チャンスも、環境も、周囲の期待も――それが違っただけだったんだ。
(――最低だ、俺)
りおは自分自身を恥じた。
どんなに模試の点がよかろうと、どんなに偏差値が高かろうと、
そんな浅い物差しでしか人を見られなかった自分の、小ささを痛感する。
そして、思った。
(ひよりは、きっと、インテリジェンスコースに受かる)
確信だった。 彼女の努力と、目を逸らさない意志を、りおは心から信じられた。
ーー乃々香視点。
「ひよりって、実はもともと勉強できたんじゃないの?」
りおの何気ない一言に、私はふっと微笑んだ。 相変わらず一人称は「俺」のままだし、喋り方も男の子っぽい。 だけど、誰よりも真っ直ぐに、ひよりを見て、言葉をかける。
ひよりは、ほんのりと頬を染めながら、自分の過去を話し始めた。 遅刻や欠席が多かったこと、内申が低かったこと。 だけど、中学の担任に言われたひと言が、今のひよりを支えていること――。
その間、りおはじっと、ひよりを見つめていた。
(……りおちゃん、優しいな)
この数ヶ月で、私は気づいていた。 りおちゃんは、すごく不器用だけど、誰かの努力や想いをちゃんと受け止める子だ。 そして、自分にも厳しい。誰かをバカにするためじゃなくて、自分を奮い立たせるために頑張るタイプ。
それに、少し前までだったら、絶対に女の子の輪に自然にいるなんてできなかっただろうに。 今は、ひよりと笑い合ったり、真剣にアドバイスしたり、当たり前みたいな顔をしてここにいる。
(ほんと、変わったよね……)
もちろん、きっと本人は気づいてない。 いまだに「俺」とか言ってるし、女の子らしくなってきてることに、きっと戸惑いながら、心の中でいっぱい抵抗してるはずだ。
でも――それでも、りおは確実に、優しく、柔らかくなっていた。
私はそんなふたりを眺めながら、静かにノートを閉じた。
(このまま、三人で、一緒に頑張れたらいいな)
ほんの少しだけ、そんなことを願った。
朝、りおは乃々香と並んで鏡に向かっていた。
メイク道具を手に取り、目元を丁寧に整えていく。 はじめは手探りだったこの作業も、今ではぎこちなさを感じさせない。 隣で微笑む乃々香に合わせるように、自然と指が動く自分に、りおは内心で苦笑した。
メイクを終えると、いよいよ制服に袖を通す。 今日から、夏服。クローゼットから取り出した桃色のセーラー服は、見た目にも明らかに軽やかだった。
りおはスカートを整え、そっとセーラー服のリボンに手を伸ばす。 ひんやりとした薄手の布が、素肌に貼りつく。 膨らんだ胸、頼りない肩、白く細い腕のラインが、これまで以上にはっきりと浮かび上がるのがわかった。
(……こんなに、体の線、出るんだな)
胸元を覆う生地も頼りなく、動くたびにふわりと形を映してしまいそうだった。 ふと、鏡に映った自分を見て、りおはぎこちなく顔を背けた。
(こんなに、大きかったっけ……?)
薄手のセーラーの下に着た白い下着――。 角度によっては、透けるのではないか。 そんな不安が頭をよぎり、りおは羞恥に身を竦ませた。
(今さらだけど、俺、……完全に女の格好してる)
男だったころには考えもしなかった感覚に、背筋がぞわぞわとした。
カレンダーを見やりながら、りおは複雑な心境を抱えた。 月末には、定期試験が待っている。それは、男に戻れる最初のチャンス。
なのに――。
乃々香と過ごす日常が、名残惜しく感じる自分に、りおは苦い思いを抱いた。 他愛もないおしゃべりや、一緒に笑った時間。 そのすべてが、まるで宝物のように心に残っていた。
(……試験対策、進めないとな)
制服のリボンをきゅっと結び直すと、りおはそっと胸の奥で決意を固めた。
数学の授業は、二次関数。 教室にはどこか、気だるい空気が流れていた。 大半の生徒はすでに集中力を失い、机に伏して眠る者や、ただぼんやりと窓の外を見つめる者ばかりだった。
(……まぁ、仕方ないか)
りおは、ちらりと隣を見やった。ひよりも、静かにノートを広げている。 3人で勉強会をする中で、二次関数などとっくに通り過ぎた単元だった。 今は、もっと先の応用問題に取り組んでいるほどだ。
だから、教科書に載っているような基本問題は、拍子抜けするほど簡単に思えた。 練習問題が黒板に書かれると同時に、りおは無意識にペンを走らせた。
「この問題、わかる人?」
教室は静まり返ったままだった。 挙がる手は、ほとんどない。そんな中、りおとひよりだけが、迷うことなく手を挙げた。 教師は少し目を丸くして、指名する。
「じゃあ、そこの君たち。答えをお願い」
りおは静かに立ち上がり、淡々と式を展開していった。 ひよりも、重要なポイントを補足するように話し、二人で協力するように正解へと導いた。 教師は満足そうにうなずき、笑顔で言った。
「素晴らしい。君たち二人は、本当によく理解できているね。優秀だよ」
その言葉に、ひよりは小さな笑みを浮かべ、はにかんだ様子で頷いた。 りおはというと――内心、複雑な感情を押し隠していた。
(インサイトコースで褒められたって……)
心のどこかで、そう突き放す声が響く。 本当に目指すべき場所は、もっと上にある。 ここで満足してしまったら、きっともう戻れない。
それでも――。 教師から向けられた評価の言葉に、胸がわずかに高鳴るのを、りおは止められなかった。 勉強して、答えを出して、認められる。そんな当たり前のことが、今は妙に嬉しい。
隣で小さくガッツポーズをするひよりを見て、りおは小さく息をついた。 そして、自分もまた、少しだけ胸を張った。
コミュニケーション演習の授業。
教室には、華やいだ空気が漂っていた。 この授業に集まっているのは、乃々香をはじめとした多数の女子生徒たち。 そして、りおもその中に混じっていた。
最初こそ違和感があったが、今ではごく自然に、女子生徒たちの列に並んでいる自分がいることに、りおは苦笑する。
「今日は、ビジネスシーンにおける第一印象について学びます。」
講師の女性は、爽やかな笑みをたたえながらそう告げた。
立ち方、声のトーン、目線――社会人として「信頼される女性」を演出するための要素が次々と語られていく。
りおは真剣に耳を傾けた。
アルバイトでの接客経験を通して、この授業の内容が決して無駄ではないことを実感していたからだ。
「『~させていただきます』『失礼いたします』……こうした丁寧な言葉遣いが、特に男性上司や取引先には重要です。」
講師の実演に続き、生徒たちは二人一組になってロールプレイを始めた。 りおも乃々香とペアになり、新人研修の自己紹介、電話応対、クレーム対応――ケーススタディに取り組んでいく。
自分でも驚くほど、りおの「女性らしい話し方」は自然になっていた。 声を少し高めに、語尾をやわらかく。 目を見て、にこやかに相手の話に耳を傾ける。最初はぎこちなかった動作も、今では身についている。
「失礼いたします、お客様。お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
その言葉は、まるで実際に顧客と向き合っているかのように落ち着いていて、丁寧だった。声も柔らかく、少し高めに響く。 その瞬間、少し緊張がほぐれて、りおはついでに軽く頷く。
「ええ、実は先日購入した商品に不具合があって……。」
乃々香がクレーム内容を説明し始めると、りおはしっかりと目を見て、穏やかな表情で頷きながら聞き続けた。 その姿勢は、まるで本当にサービス業の一線で活躍しているかのようだった。
「ご不便をおかけし、大変申し訳ございません。お客様のお気持ち、よくわかります。」
りおは、心から謝るような声で言う。その声には、やはりやわらかさと誠意がこもっていた。
「まずは、商品の交換もしくは返金をさせていただきます。どちらがよろしいでしょうか?」
相手が少し考え込みながらも、「交換で」と答えると、りおはスムーズに対応を進める。
「かしこまりました。すぐに手配いたしますので、少々お待ちいただけますか?」
言葉のトーンも、非常に穏やかで安心感を与えるものだった。 その後、乃々香が席を外した後、クラスメイトたちが拍手を送ってくれた。
ビデオで録画された自分の立ち居振る舞いを、フィードバックの時間に見せられたとき――りおは内心、衝撃を受けた。
(……俺、完全に、女だ)
柔らかな声、穏やかな仕草。 画面に映った自分は、誰が見ても立派な「信頼される女性」だった。 恥ずかしさがこみ上げる一方で、講師やクラスメートたちから「とても良かった」と褒められると、胸の奥がかすかに温まる。
本来なら、男として、堂々と振る舞いたかった。 だが今、こうして「女の子」として信頼される自分がいる―― その事実を、りおは複雑な気持ちで受け止めていた。
授業の最後、乃々香が隣でにこにこと笑いながら言った。
「りおちゃん、すっごく自然だったよ。もう、完璧な女の子って感じ。」
りおは、顔を赤らめながら小さくため息をついた。
(……完璧なんて、なりたくなかったのに)
それでも、心のどこかで、褒められる嬉しさを否定できない自分がいた。
りおは、ひよりと一緒にインテリジェンスコースの試験に申し込んだ。
ひよりはニヤリと笑いながら、りおをからかう。
「今度は間違いなく、インテリジェンスコースだね。インサイトコースじゃなくて。」
「も、もう言うなよ…恥ずかしいだろ…。」
もし、入学願書提出の際にひよりがいたならば。 メイクをして、桃色のセーラー服に身を包み、女の子に混ざってはいなかったかもしれない。 りおは、手で顔を隠すようにして笑った。
最近の勉強会で、ひよりの成長ぶりにりおは驚かされていた。 今ではひよりが問題に取り組む姿は、もはや一流の学生そのものだった。 試験が近づく中、りおは確信を持った。
(これなら、ひよりもきっとインテリジェンスコースに合格するだろう)
その思いは、どこか自信に満ちていた。ひよりがここまで頑張ってきたからこそ、試験に合格できる力をすでに身につけている。 りおは、二人で一緒にインテリジェンスコースに合格できると信じていた。
「……でも、試験が終わったら、なんか寂しいな。」
乃々香が突然口を挟んだ。りおはその言葉に少し驚きつつも、心のどこかで同じように感じていた。
「え、寂しいって、どうして?」
ひよりが問いかけると、乃々香は少し頬を染めて答えた。
「だって、りおとひよりがインテリジェンスコースに行ったら、私だけ取り残されちゃうみたいで、ちょっとさ……。」
ひよりは、思わず乃々香を慰めるように笑いかけた。
「大丈夫だよ。だって、りおと私は同じ学校だし、放課後や休み時間に一緒に遊べるしさ。」
「うん、そだね。」
りおもその言葉に心が少し軽くなる。
でも、心の中では、少しだけ不安がよぎった。 もし男に戻ったら、ひよりや乃々香との関係が終わってしまうのではないか――そんなことを、どうしても考えてしまう。 試験の結果、そして自分の運命。それをすべて受け入れなければならないと思うと、少しだけ胸が重くなる。
ひよりはその不安を感じ取ったのか、笑いながら言った。
「でもさ、インテリジェンスコースに行っても、男に戻る必要はないんじゃない?」
りおはその言葉に驚き、思わず首を横に振った。
「いや、違う。男に戻らないと、いろいろなことが元に戻らないから。」
言葉には少し力を込めて、ひよりを見つめた。 "遼"の成績に期待している両親、自身を兄と慕う弟、かつて肩を並べていた航平。さまざまな人物の顔が思い浮かぶ。
ひよりはしばらく黙っていたが、やがて少しだけ残念そうに肩をすくめた。
「わかった。でも、少しでもその不安が減るといいね。」
その言葉を聞いて、りおは心の中で少しだけ希望を持ち、明日の試験に向けて気持ちを引き締めた。
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