【第九話】女子高生になった俺、次の試験で絶対男に戻る


目次


 

1.中間試験

 中間試験の当日。

 りおは、朝からの鈍い腹痛に気づいていなかった。食欲もなく、なんとなく体調が優れないことは感じていた。 しかし、その正体を、りおは知らなかった。少しでも動けば楽になるかと思い、いつものように朝の点呼に並んだが、だんだん痛みがひどくなってきた。

「あ、痛い…」

 体を曲げるようにして歩くが、痛みは次第に耐えきれなくなり、思わずその場でうずくまった。 冷や汗が額を伝い、息が荒くなった。目の前が暗くなり、足元がふらついて、意識が遠のいていく。 流れる血液に気づいた瞬間、りおは意識を失った。


 気づくと、やわらかな布団の上に横たわっていた。頭がぼんやりとしている中、顔が覗き込まれる感覚がした。目を開けると、乃々香とひよりが心配そうに自分を見つめていた。

「りおちゃん、大丈夫?」

 ひよりの声が響く。

「無理しないで、少し休んで。」

 乃々香が静かな口調で言うと、りおは急に不安になった。試験のことが頭に浮かんだ。

「試験…」

 りおは痛みを感じながらも、体を起こそうとしたが、腹部の痛みが再び強くなり、まったく動けない。

「試験、試験受けないと…!」

 焦る気持ちを抑えきれずに言葉が漏れるが、ひよりと乃々香が静かにその手を押さえる。

「もう、試験は無理だよ。でも、あたしたちも一緒だから。」

 ひよりが優しく言った。

「りお、大丈夫。試験は再試験を受けることになったんだ。インサイトコースのだけど……ね。」

 乃々香も穏やかに補足する。

 その瞬間、りおは完全に現実を直視し、気持ちが急激に沈んだ。再試験。 試験を欠席したことで、6月に男に戻るための望みが完全に断たれてしまった。 絶望感が胸を締めつけ、体の痛みもその中でさらに鋭く感じられた。

「6月、戻れない…」

 口に出した瞬間、りおは自分の無力さにさらに深い喪失感を覚える。思わず目頭が熱くなったが、すぐにそれを感じることすら嫌だった。

「ひより、乃々香…本当にごめん。」

 りおは涙をこらえて謝る。その心情は、試験を逃したことよりも、ひよりと乃々香が心配してくれていることがただただ辛く、心を痛めたからだ。 特にひよりはコース転換を目指していたはずなのに、巻き込んでしまった。

「気にしないで、りお。私たちは、りおが元気になることが一番大事だよ。」

 ひよりの言葉に、りおは少しだけ落ち着きを取り戻す。その優しさに、胸が締め付けられるような感覚が広がる。

「本当に…ごめん。」

 もう一度、りおは言った。これ以上、謝る言葉が出てこない。ひよりも乃々香も、自分が倒れたことで全てを放り出して看病してくれている。 心からありがたく感じる反面、自分があまりにも無力だと痛感していた。

 その時、寮母が部屋に入ってきて、静かに声をかける。

「りおちゃん、これを使ってくださいね。」

 今までとは別人のような優しい声だった。寮母は、見たことのない包みをりおに手渡す。 続けてかけられた言葉に、頭が真っ白になった。

「もう、あなたも産める身体になったんですね。女の身体になったんだなと思いますよ。」

 その一言が、まるで雷に打たれたように、頭の中で反響した。この包みの正体に気が付いた。 体の中で何かが動き、波のように胸を締めつける。何もかもが急に実感として迫ってきて、りおは唇をかみしめた。 腹部の鈍い痛み、それが今、どうしても自分のものだと認識せざるを得ない。その痛みこそが、女性の生理であるということを、ようやく理解した。

(まさか、こんな形で…)

 心の中で思うが、言葉にはならなかった。知識としてはもちろん知っていた。 自分が女の身体に変化していく過程で、いつかこの瞬間が訪れることは理解していたはずだ。 しかし、これが自分の身体に起きていることだと実感するのは、思っていた以上に衝撃的だった。

「俺は…」

 その言葉も、すぐには出てこなかった。まるで、身体がその言葉を受け入れてくれないかのように、ただただ自分が無力で、過去の自分が遠くに感じられる。 その不安定さが、心の中で膨れ上がり、耐え難いほどに重くのしかかってきた。

「あ……、あ……。」

 涙が静かに頬を伝う。
 どこかで無意識に抑え込んでいたものが、一気に溢れ出してきた。
 自分の中で、女性としての変化が始まったことを実感するたびに、言いようのない恐怖と混乱が押し寄せてくる。 それは、ただ単に身体が変わったということだけでなく、過去の自分がどんどん遠くなっていく感覚だった。 男としての自分を少しでも残しておきたかったのに、それが無意識のうちに変わっていくことを、手のひらで感じている。

 涙が止まらなかった。
 その理由は、痛みや不安だけではなく、どうしようもない感情に押しつぶされそうになっていることだ。 生理が来た、そして、それが男性だった自分にとっての一線を越えた出来事だと感じる。 生理というのは、ただの身体の機能の変化ではなく、自分が完全に女になった証であり、その事実が怖くて仕方なかった。

「本当に…女になったんだ。」

 心の中でそう呟く。手にした生理用品が、今更ながらに意味を持つことを、完全に実感した瞬間だった。 自分が男であることを強く意識していたはずなのに、身体がどんどん変化していき、その変化に対する恐怖と混乱がどんどん膨れ上がる。

 今日、男に戻るはずだった。それなのに、本当に女になってしまった。 りおは、ただただ無力で、涙をこらえることもできずに、その場で静かに泣いた。


2.快気祝い

 りおは、今日も寮の部屋に閉じこもっていた。学校へ行く気力は、まだ戻っていない。

 あの日から、寮母は不思議なほど優しくなり、今夜に限って、消灯時刻を過ぎても起きていていいと許可をくれた。 どうせ眠れそうになかったりおは、ぼんやりとベッドに腰掛けていた。

 ドアが勢いよく開き、にぎやかな声が飛び込んでくる。

「りおー! 快気祝いだよー!」

 乃々香とひよりが、両手いっぱいにジュースとお菓子を抱えて飛び込んできた。

「いや、快気してないし、閉じこもってるんだけど。」

 りおは思わず笑ってしまう。2人の明るさにつられてしまった。 こんなふうに自然に笑ったのは、あの日以来初めてだった。

「まずは乾杯しよっか!」

 ひよりが言い、紙コップにジュースを注ぐ。

「かんぱーい!」

 3人でコップを合わせた。乾いた軽い音が、なんだかとても心地よかった。 ワイワイとお菓子を広げ、あれこれ口に運びながら、自然と笑い声があふれる。

「これ、おいしい!止まんない!」 「えー、これちょっと変な味する~!」

 乃々香が持ってきた、妙にクセの強いスナック菓子をめぐって、ひよりが顔をしかめ、乃々香が大笑いする。 りおもつられて笑ってしまう。

 ふと、りおは真剣な顔になる。

「……ごめん。あのとき、2人も巻き込んで、再試験になっちゃって……」

 けれど、ひよりが素早く手を振って止めた。

「もうその話は禁止!謝る代わりに、ちゃんと『ありがとう』って言って?」

「……ありがとう。」

 たどたどしく口にすると、2人はにっこりと微笑んだ。

「はい、これも!」

 乃々香とひよりが、ポケットから小さな包みを取り出す。 開いてみると、中には細いミサンガが2本。 それぞれ微妙に色合いが違って、でも、どちらも丁寧に編まれていた。

「りおが元気になりますように、って作ったの。地味だけど、気持ちね。」

 手間暇かけて、自分のためにこんなものを作ってくれた。 それがたまらなく嬉しくて、りおは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「ねえねえ、夏休み、みんなでお泊り会しようよ!」

 乃々香が思いつきで言うと、ひよりも即座に賛成する。

「いいね!りおの家とか、行ってみたい!」
「お、弟がいるんだけど……。」
「じゃあなおさら、りおの家がいい!」
「なんで!?」

 3人で顔を見合わせ、声をあげて笑った。 女でいる期間は、9月の定期試験まで延びてしまった。それは本来、りおにとって絶望的なことだったはずだ。 だけど今は、そんな不安よりも――手に入れたこの友情のほうが、ずっと大切に思えた。

 先のことは考えたくない。 今はただ、この温かい時間を、心に刻みたかった。

 りおの胸のもやは、少しずつ、少しずつ晴れていった。


「ねえ、みんな……将来って、どうしたいとか、ある?」

 ぽつりと乃々香が尋ねた。ふと空気がしんとする。りおは少し考えてから、言葉を探した。

「……俺は……まだなんとなくだけど、大学行って、それから、普通に就職するのかなって思ってる。」

 自信のない声だった。ぼんやりとしか未来を描けない自分が、少し恥ずかしかった。

「普通っていいと思うよ。」

 乃々香がにっこりと笑った。

「でも、わたしは……子どもを育てるお母さんたちとか、働きたいけど難しいって悩んでる女性たちを支える仕事がしたいなって思ってる。」

「えっ、すごい……!」

 りおは、心から感嘆の声をあげた。 乃々香の目が、暗がりでもわかるくらい、まっすぐに輝いていたからだ。

「わたし、子どもが大好きで。家族を大事にしながら、社会にも貢献できる仕事がしたいんだ。 そんな人たちの力になれたらいいなって……まだ漠然としてるけどね。」

 乃々香は、照れたように笑った。その隣で、ひよりが小さく手を挙げる。

「わたしも、ちょっとだけ夢があるんだ。」

「ひよりは?」

「……先生になりたい。教育学部に進んで、小学校か中学校の先生。 できれば、落ちこぼれそうな子を支えるような仕事がしたいの。」

 ひよりは、そっと視線を伏せた。珍しく、少しだけ真剣な顔。

「中学のとき、担任の先生に言われた言葉。 “ひよりはバカじゃない。ただ、人に期待されてこなかっただけだ”って。」

――期待されなかった子ども。 それを、ひよりは、ずっと心に抱えてきたのだろう。 りおの胸が、ぎゅっとなる。

「それで、わたしも、誰かのことを信じてあげられる大人になりたいって……そう思った。」

 ひよりが顔を上げると、目がほんのり潤んでいた。 けれど、その顔は、どこか誇らしげでもあった。

「……乃々香も、ひよりも、すごいよ。」

 りおは、自然とそう言葉にしていた。

「俺なんか、まだ何にも決まってないし、ぼんやりしてるのに……2人とも、ちゃんと夢があるんだなって。ほんとに、すごいと思う。」

 2人は、えへへと笑い合った。特別な言葉なんて、いらなかった。この瞬間だけで、十分だった。

「夢は、きっとこれからだよ。」

 乃々香が優しく言った。

「わたしたち、これからいっぱい考えて、いっぱい悩んで、でも、絶対、楽しい未来にしようね。」

「うん!」

 りおは思わず、力強く頷いた。 心の中に、小さな灯がともるのを感じながら。

 この夜、3人の間に結ばれた絆は、誰にも壊せないものになった。


3.再試験

 再試験の日が来た。

 俺と乃々香、ひより、そしてその他大勢の女子たちが、体育館に集められる。 会場を見渡すと、思っていたよりもずっと人数が多い。 噂で聞いていた通り、赤点を取った生徒たちもまとめて受けるらしい。

「……こんなにいるのかよ。」

 りおは、思わず小さく呟いた。 周囲の女子たちは、開き直ったような顔で笑い合っていて、その空気に釣られてりおも一瞬だけ苦笑する。

(俺だけじゃない……)

 そんな風に安堵しかけたが、すぐに顔を引き締めた。

(違う……。インサイトコースの『普通』に安心してどうする)

 りおの目的は、ここを抜け出すことだ。 普通で満足したら、その時点で終わりだ。自分に言い聞かせるように、拳を握りしめた。
 再試験の問題用紙が配られる。 内容は、インサイトコース基準の簡単な問題だった。今まで何度も練習してきた範囲。焦らず、慎重に、答案を埋めていく。

(いける。……手応えは、悪くない)

 自分にそう言い聞かせながら、りおは答案を提出した。


 だが。

 答案が返却された瞬間、胸の奥がずしんと沈んだ。

「78点」

 赤ペンで大きく書かれた数字が目に飛び込んでくる。 ケアレスミス、場合分けの漏れ、細かい失点が積み重なっていた。

 隣のひよりが、答案を胸に抱え、小さくガッツポーズをしている。 答案用紙には、誇らしげに「92点」と記されていた。

(……すごいな、ひより)

 りおは、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。 悔しい。間違いなく、悔しい。けれど、それ以上に、心から納得している自分もいた。

 ひよりは、誰よりも努力していた。 どんなに時間がかかっても、どんなにつまずいても、絶対に諦めなかった。 その努力が実を結んだことを、りおは素直に尊敬していた。

(本当に、すごいよ……ひより)

 だが。 その感情は、次の瞬間、冷たい汗に変わった。

 乃々香の答案用紙にも、同じ「78点」の文字が記されていた。

(……マジかよ)

 乃々香は、別に大学受験を目指しているわけでもない。 将来のために、なんて大義名分を掲げているわけでもない。それでも、りおと同じ点数を取ってきた。

 胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。

(俺……追いつかれてる……)

 冷たい汗が背中を伝った。息が浅くなるのを、必死で押し殺す。

――突然訪れた生理。
――6月に男に戻るという、当初目標のチャンスを失ったこと。

 あの動揺が、今日のミスにつながったのだと、りおは自己分析した。
 次は大丈夫。
 次こそきっと。
 何度も心の中で言い聞かせる。

 けれど、不安は、喉の奥でかすかに震え続けていた。

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