女子寮の一室で、りおは乃々香とひよりに囲まれていた。
「いい加減、卒業生が寄付した古着ばっかり着てるの、やめようよ!」
ひよりが頬を膨らませる。乃々香も苦笑しながら頷いた。
「りおにはりおに似合う服があるんだから。それに……せっかくこんなに可愛いのに、もったいないよ。」
そんな流れで、休日に三人でショッピングに出かけることになった。
鏡の前でメイクを済ませる。
いつの間にか、外に出るときに化粧をしないと落ち着かなくなっていた。
ほんの3ヶ月前まで、メイクなど不真面目だと見下していたことを、ふと思い出す。
(俺、どこまで女になってんだか……)
鏡の中の自分に苦笑いする。まるで、もうこれが「普通」みたいだった。
繁華街へ出ると、町は男だった頃よりもずっと色鮮やかに映った。 レディースのファッション店が立ち並び、ショーウィンドウに飾られた可愛らしい服たちが、まるで誘うように輝いて見える。 以前の自分なら、ただ素通りしていた景色だったのに。
「りお、これ絶対似合うよ!」
「これもいいかも。肩のラインがきれいに出るし」
乃々香とひよりが楽しそうに服を選んでくれる。はじめは照れくさかったりおも、次第に夢中になっていた。
ブラウスやスカート、ワンピースに目を輝かせ、手に取っては鏡に合わせる。
ふと視線を落とせば、ランジェリーコーナーが目に入り、ドキリとする。
だが、気がつけばそこでも、可愛らしいデザインに心を惹かれていた。
(俺、マジで……女だな)
自嘲気味に思いながらも、どこか胸が弾んでいた。 二人に囲まれて笑い合いながら、服を選ぶこの時間が、たまらなく愛おしく思えた。
試着室に押し込まれるように入ったりおは、乃々香に渡されたワンピースをぎこちなく手に取った。
「大丈夫、大丈夫!絶対似合うから!」
外から聞こえる乃々香とひよりの声に、りおは観念して着替えを始めた。
制服とは違う、柔らかな手触りの布が肌に馴染む。ボタンを留め、胸元を整え、裾を撫でる。
――これが、自分で選んだ服。
今までは与えられるまま、着せられるままの服だった。
卒業生が寄付した古びた制服、少しサイズの合わないシャツ。
「仕方なく着るもの」だった服が、今、鏡の前で「自分で選びたいもの」に変わりつつある。
「……着た、けど……」
カーテン越しに声をかける。
「見せて見せて!」 「早く早く!」
二人のせかす声に押され、りおはそっとカーテンを開いた。
「あっ、やっぱり可愛い!」 「めっちゃ似合ってる……!」
乃々香とひよりが目を輝かせる。
りおはおそるおそる鏡に向き直った。
淡いラベンダー色のワンピースが、白い肌にふんわりと映えている。
肩から胸元にかけて自然な曲線を描き、スカートは軽やかに揺れた。鏡に映る自分は、思っていたよりずっと自然で――女の子らしかった。
「変……じゃないかな?」
「変じゃないよ。可愛いって言ってるの!」
「なんか、上品なお嬢様みたいだよ。」
顔が熱い。こんなふうに褒められることに、まだ慣れていない。だけど、心のどこかがじんわりと温かかった。
これまで、男の自分が着ていた服は「誰かに着せられたもの」だった。
でも、今――このワンピースは、「自分で選び、自分で着た」初めての服だ。
「……そっか。ありがとう。」
りおは小さく笑った。 その笑顔に、二人もつられて笑った。
(俺は、もう――ただ、着せられてるだけじゃない)
服の軽さと、心の高鳴りに包まれながら、りおはそっと胸の中で思った。
ワンピースを買い終えたあと、次は下着売り場に向かうことになった。
「次はちゃんとした下着も揃えなきゃね!」 「寄付されたやつ、サイズも合ってなかったでしょ?」
乃々香とひよりに当然のように手を引かれ、りおは観念した。 だけど、目の前に広がるフリルやレースの並んだコーナーに、どうしても気後れしてしまう。
(うわ、こんなとこ……)
男だったころなら、絶対に視界にも入れなかった空間。 今は、自分が当たり前の顔をして歩かなきゃいけない。 胸の奥に、まだ拭えない違和感と、ほんの少しの期待が同時に膨らんでいた。
「これとか可愛い!ワンピにも合いそう!」 「こっちはちょっと大人っぽい!」
どんどん下着を選び始める乃々香とひより。 りおは、ただ突っ立っているしかできなかった。
「なあ……本当に、俺、こんなの買うのか……?」
思わずぼやいたその声に、乃々香がにやりと笑った。
「だってさ~、智也くんと良い感じなんでしょ?」
「っ……!」
耳まで一気に熱くなる。 必死で顔を背けるりおに、ひよりが追い打ちをかける。
「じゃあ、その智也くんのために選ぶんだね~?」
「ち、違っ……!!」
声を裏返しながら否定したものの、二人のにやにやは止まらない。 心のどこかで、図星を刺されたような気がして、りおは言葉に詰まった。
(智也のため、なんかじゃ……)
そう思おうとする。
でも、頭に浮かんでしまう。
――バイトの合間にふと見せる、智也のあの柔らかい笑顔。
「ありがとう」「助かったよ」って、照れたように言ってくれる声。
(……もし、あいつが、俺の服とか、下着とか……)
そこまで考えて、りおは慌てて頭を振った。
(なに考えてんだ俺は!)
背中に、ひやりとした汗が流れる。
そんなパニック状態のまま、乃々香が差し出したレースのセットを無抵抗で受け取ってしまった。
「初心者向けだし、りおにぴったり!」 「うん、すごく似合いそう」
あれよあれよという間にレジへ向かう。 手の中にある、小さな、小さな下着の袋。 レジの台に載せる瞬間、りおの心臓は跳ね上がった。
(……これ、俺が……買うのか……)
しかも、自分のためだけじゃない。 心のどこかで――ほんの少しでも、 「智也に見られても恥ずかしくないように」って思って、選んでしまった。
(……最悪だ……!)
顔から火が出そうだった。 カウンター越しの店員に袋を渡されるときも、視線を合わせられず、無言で受け取る。 その指先が震えていたのを、自分でも気づいていた。
でも――。
(これも、俺が、選んだんだ……)
逃げなかった。自分で、ちゃんと選んだんだ。 そんな小さな事実に、わずかに胸を張りながら、りおは顔を真っ赤にしたまま、乃々香とひよりのもとへと戻った。
夏休みに入り、女子寮は一時閉鎖されることになった。 りおは、重い荷物を引きずるようにして、久しぶりに実家へ向かっていた。
(……親に、どう説明すりゃいいんだよ)
車窓に映る自分は、あのころの「俺」とはまるで違っていた。 メイクを施し、爪先はきれいに彩られ、髪は柔らかな茶色に染まっている。 制服を脱いだプライベートでは、あのショッピング以来、自らすすんでレディースの服を選び、女の子らしいデザインに心をときめかせるようになっていた。
最初は戸惑いながらだった。 だが、一度堰を切ると、隠していた「かわいくなりたい」という気持ちが、止まらなくなってしまった。
カラフルな町並みや、ショーウィンドウに並ぶ洋服たち。
男だったころは気にも留めなかったそれらが、今ではまるで宝物のように見える。
――りおの中では、確かに何かが変わっていた。
実家の最寄駅に到着すると、そこに立っていたのは、見違えるように成長した少年だった。
「……想真?」
声をかけると、彼――佐原想真が、はにかみながら振り返る。
「……お、お姉ちゃん?」
その呼びかけに、りおは小さく肩をすくめた。 もはや「間違えただけ」などと言い訳できる姿ではない。
白のレースがあしらわれたブラウスに、淡いラベンダー色のスカート。 小さなハンドバッグを肩から下げ、素足には涼しげなサンダルを履いている。 控えめながらきちんとメイクを施した顔は、ほんのりと頬を染め、柔らかな茶髪は軽く巻かれて肩にふんわりとかかっていた。
小さなパールのイヤリングが耳元でかすかに揺れ、すれ違うたびに、ほんの微かに甘いフローラルの香水が香る。 手元にはピンクベージュのネイルがきれいに塗られ、細い指先がさらに繊細さを際立たせていた。 どこからどう見ても、街中にいそうな、年頃の女の子だった。
想真は、あの小さかったころの面影を残しつつも、ぐんと身長が伸びていた。 今や、りおの目線よりもずっと高い位置に立ち、背がぐんと伸びた体格は、まるで男らしさを感じさせるものだった。
りおは少し頭を上げて、想真を見上げる。彼の目を見ようとすると、どうしても顔を少し上げる必要がある。 身長差に少し驚きながらも、自然と視線が彼の胸元辺りに定まる。そのギャップに、少し戸惑いながらも、その不思議な感覚を楽しんでいた。
想真は、ぽかんと口を開けたまま、りおを見下ろしていた。 たった数ヶ月前まで「お兄ちゃん」だった存在が、目の前には、どう見ても普通の「お姉ちゃん」として立っている。
声をかけようにも、言葉がなかなか出てこない。 視線はりおの顔からスカートの裾、そしてネイルの塗られた細い指先へと落ち、気まずそうに宙を泳いだ。
「……そっか、うん。やっぱ、お姉ちゃん……だな。」
想真の低い声がお腹に響く。りおは少し苦笑して、小さく頷いた。否定も、からかい返すこともできなかった。 自分でも、鏡に映る姿を見ればわかる。もうどこにも「男だった自分」は残っていない。 スカートも、ハンドバッグも、きれいに巻いた髪も、自分で選び、楽しんで身につけたものだった。
「……ただいま、想真。」
少し照れたように笑いながら言うと、想真も気恥ずかしそうに笑って「おかえり」と返してきた。 そのやりとりに、りおの胸の奥がほんの少し、温かくなる。
変わったのは自分だけじゃない。 想真も、子どもっぽかった頃とは違い、きちんと成長していた。
兄弟だった関係は、少しずつ、けれど確かに、変わっていこうとしていた。
実家に帰ると、母親はキッチンから顔を上げ、少し驚いた様子でりおを見つめた。 父親も同様に、手に持っていた新聞を置いて目を丸くしている。
「…あれ?」
「りお、かしら?」
父親と母親が言葉を交わす。二人とも、思わず言葉を失っている。 りおはその視線を感じ、顔が熱くなるのを感じた。今の自分にどう反応して良いのか、わからないのだろう。
「えっと、あの…」
りおは少し恥ずかしそうに言葉を濁しながら名乗る。
「りお、帰ってきたよ。」
母親が柔らかな笑顔を浮かべて、りおをじっと見つめる。
「…本当に、お姉ちゃんって感じになったわね。可愛くなったのね。」
父親も少し照れくさそうに言葉を続けた。
「まさかこんなに変わるとは思わなかったな…前は、もっとやんちゃだったのに。」
その言葉に、りおは顔を赤くし、視線をそらす。
「そ、そんなことないよ…」
でも、その心地よい照れくささの中に、内心では嬉しさが広がっていくのを感じていた。 褒められるのは、やはり悪い気はしないものだ。
弟の想真も、少し笑いながら言った。
「いや、なんか…お姉ちゃん、確かに可愛くなったよ。大人っぽくなったっていうか。」
その言葉に、りおは少しまた顔を赤らめながら「ありがと…」と小さく答える。
りおは、少し迷った後、意を決して話す。
「成績は芳しくないんだ。学校の先生からは短期大学を勧められた。」
それはつまり、「男に戻ること」「インテリジェンスコースへの転換」さらに「大学進学」さえ難しいことを意味する。 でも、りおは両親に対し、その可能性を知らせておかなければならないと考えていた。
「学校からの連絡で、成績が芳しくないことは聞いていたわ。でも、別にそれだけが全てじゃないわよね。」
母親の言葉は、りおの気持ちを少し楽にさせた。 父親も少し考え込んでからこう言った。
「そうか。進学することがすべてじゃないからな。お前がやりたいことを見つけるのが一番だよ。」
その言葉に、りおは驚きながらも安堵した。 両親は、難関大学への進学を必死に求めるわけでもなく、ただ自分が幸せになれる場所を見つけることを願っているだけだと感じた。
「学校はどう、楽しい?」
この前、ひよりや乃々香と笑い合った時のことが、今でも鮮明に思い出される。 友達を作るのは簡単なことじゃないけど、今の自分にはその仲間たちが支えとなっている。
「うん、楽しいよ。」
りおは少し照れくさそうに言った。
家族は、特に自分に過度な期待をかけるわけではなく、むしろ自分の幸せを気にかけてくれることに、りおは心から感謝していた。 いわばありもしない重い期待を背負い込み、自分で自分を追い詰めていたということだ。 そのおかげで、少しだけ肩の力が抜け、ホッとした気持ちになった。
りおは、クローゼットの引き出しから、先日自分で選んだ下着を取り出した。 淡いピンク色に、繊細なレースと小さなリボンがあしらわれたデザイン。
「……誰に見せるわけでもないのにな。」
ぼそりと呟きながらも、りおは素直にその可愛らしさを受け入れて、身に着けた。 人に見えるわけではないのに、こうして丁寧に飾られた自分を見ると、胸の奥がほんのり高揚する。 胸元を軽く押さえながら、りおは小さく笑った。
次に、机の上に置かれたメイク道具へと手を伸ばす。 鏡に映る自分の顔を見つめ、ゆっくりと下地を塗り広げた。
「……ここで、俺、昔は勉強ばっかしてたのにな。」
この部屋にいた頃の、自分――まだ男だった頃の自分――を思い出して、苦笑する。 そんな過去の姿と、今こうしてメイクを施している自分とのギャップに、りおは改めて変化を実感した。
ベースメイクを終え、ふんわりとピンク色を含んだリップをひと塗り。 軽く巻いた茶色の髪が、肩に優しく落ちる。 耳元では小さなパールのイヤリングがかすかに揺れていた。
身支度を整え、りおは小さなハンドバッグを手に取り、立ち上がった。
「よし……行くか。」
そう呟き、りおはゆっくりと歩き出す。
アルバイト先のカフェ。
りおは、カウンターの奥で慣れた手つきで食器を拭いていた。
智也のアドバイスが功を奏して、最近はミスもぐっと減った。
初めのころはトレーをひっくり返したり、オーダーを間違えたりと散々だったけれど、今では落ち着いて仕事をこなせるようになってきた。
「りおちゃん、ちょっといいかい?」
店長がカウンター越しに声をかけてきた。 りおは「はい!」と明るく返事をして、手を止める。
「最近さ、常連さん、増えてるんだよ。君が入ってから特にね。」
店長はにこやかに目を細めた。
「みんな、君のこと、すごく感じがいいって言ってる。よく頑張ってるよ。」
(……俺、役に立ててるんだ)
りおは、じわりと胸の奥が温かくなるのを感じた。 ほんの少し前までは、何をやっても上手くいかない気がしていた。勉強も、思うように伸びなかった。 いくら努力しても成績は頭打ちで、気づけばひよりにぐんと差をつけられ、乃々香にすら追いつかれていた。
(……俺、やっぱりダメなのかなって……思ってた)
何をやっても報われない。どれだけ頑張っても、あのころの自分には戻れない。
そんな無力感が、心のどこかにずっと巣食っていた。
でも――ここでは違う。
この小さなカフェでは、自分の手で誰かの役に立てている。 誰かが笑ってくれる。感謝してくれる。 そんなささやかな手応えが、今のりおにとっては、何よりの救いだった。
りおはぎゅっと両手を握りしめ、小さく息を吐いた。
(……俺、ちゃんと、ここにいていいんだ。)
アルバイト先の暖かい空気に包まれながら、りおはもう一度、小さく微笑んだ。
ちょうど店を出ようとしたとき、同じバイトの智也が声をかけてきた。
「なあ、りお、今日このあと、時間ある?」
「え?はい。」
首をかしげるりおに、智也はちょっと照れたように笑った。
「よかったら、メシでも行かね?」
「……あ、うん。いいよ。」
りおはあまり深く考えず、自然に頷いた。 智也と話すのは楽しかったし、たまにはそんな気分転換も悪くない、そんな軽い気持ちだった。
肩に小さなバッグをかけ、涼しげなサンダルでトコトコと智也の隣を歩き出す。 暮れなずむ空の下、りおの茶色の髪が、夕陽を受けてやわらかく輝いていた。
レストランに入ったりおは、慣れないながらも落ち着いた様子で席に着いた。 智也がメニューを開きながら微笑む。そんな彼に合わせるように、りおも小さく笑った。 料理を待つあいだ、りおは最近の学校生活について話し始めた。
「桜栄学園、授業は結構ハードだけど、楽しいよ。女子寮も、最初は緊張してたけど、今はだいぶ慣れてきた。」
「友達とも勉強会したり、放課後にショッピング行ったりして……毎日が新鮮なんだ。」
自分でも驚くくらい、自然にそんな言葉が口をついて出ていた。
智也は優しく頷きながら、りおの話を聞いてくれる。
ふと、りおは尋ねた。
「智也くんは、大学でどんなこと勉強してるの?」
智也は嬉しそうに目を輝かせ、専門の話を語り出した。 化学専攻。物質の性質や反応、ナノレベルでの構造解析――。 難しい単語が飛び交い、正直、りおにはほとんど意味がわからなかった。
「……すごいね。」
ぽつりと漏れたその言葉は、心からだった。 目を輝かせて語る智也の姿が、りおにはとても眩しく見えた。 その横顔をぼんやりと見つめるうちに、心がふわふわと浮かび上がるような感覚に包まれる。
(……あれ、俺、何やってんだ。)
はっと我に返り、りおは慌てて視線を逸らした。 男とふたりで食事なんて、冷静に考えれば、まるでデートみたいじゃないか。 頬がじんわりと熱を持つのを、必死で誤魔化す。
(違う違う、俺は……そんな、男相手に……!)
ぶんぶんと心の中で首を振りながら、りおは自分に言い聞かせた。
男と恋愛なんて、ありえない。絶対に。
それでも、ちらりと見た智也の微笑みに、胸がちくりと痛むような、くすぐったいような感覚が走った。
(……何なんだよ、もう。)
りおはそっと、テーブルの下で指先をぎゅっと握った。
食事を終えて、ふたりは並んでレストランを後にした。 夜風が心地よく、りおはそっと息をついた。
「美味しかったね。」
「うん。……誘ってくれてありがと。」
りおが素直に礼を言うと、智也は「こちらこそ」と照れたように笑った。 その自然な笑顔に、また胸が少しきゅっとなる。
(……やめろって、俺。)
自分に言い聞かせながらも、隣を歩く智也の背中は、どこか頼もしく見えた。 会話は途切れがちだったが、気まずさはなかった。 むしろ、静かな夜の空気がふたりの間をやわらかく繋いでいるような、そんな不思議な心地よさがあった。
途中、りおのサンダルのかかとが小さな段差に引っかかり、よろける。
「わっ……!」
すかさず、智也の手が、りおの腕を支えた。
「大丈夫?」
その手のあたたかさに、りおの心臓がどくんと跳ねた。 顔を上げると、すぐそばに智也の顔がある。 驚きと、恥ずかしさと、ほんの少しの嬉しさがいっぺんに押し寄せた。
「う、うん……ありがと。」
必死に取り繕いながら答えると、智也は安心したように手を離してくれた。 けれど、支えられた場所が、ほんのり熱を持ったままだった。
(……こんなの、絶対おかしいって。)
男にドキドキするなんて、ありえない。 そう思えば思うほど、意識してしまう自分が嫌だった。
家の灯りが見えてくる。もうすぐだ。 なのに、もっとこの時間が続けばいいのに――なんて、そんなことを思ってしまう自分が、怖かった。
「じゃあ、またな。」
家の前で立ち止まった智也が、軽く手を振る。
「うん。またね。」
笑って返した自分の声が、ほんの少しだけ震えていたことに、りおは気づかなかったふりをした。
部屋に戻ったりおは、制服を脱ぎ、メイクを落とし、いつものようにベッドに潜り込んだ。 ふかふかの掛け布団に包まれながら、じっと天井を見つめる。 さっきのことが、頭から離れなかった。
(……なんで、あんなにドキドキしてたんだろ。)
智也に支えられた腕の感触。 近くで見た、穏やかな瞳。 ふいに見せた、無防備な笑顔。 それらひとつひとつが、胸の奥にじんわりと熱を灯している。
(違う、違うって……。)
必死に打ち消そうとするけれど、浮かんでくるのは智也の顔ばかりだ。 今まではこんなふうに、誰かを意識するなんてなかったのに。
「俺、男なんだぞ……。」
ぽつりとこぼした声は、情けないくらい震えていた。 男が、男にときめくなんて。 ありえない。 絶対に、ありえない。
それなのに――
優しくされたときの、あの安心感。支えられたときの、あたたかさ。笑いかけられたときの、胸の高鳴り。
全部、どうしようもなく、心に残っていた。
「……バカ。」
自分に向かって吐き捨てる。 けれど、頬はほんのり熱くなったまま。 布団に顔を埋めても、心臓の鼓動がやけにうるさかった。
(俺は……どうなっちまったんだろ。)
目を閉じても、智也の姿が焼きついて、消えなかった。
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